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ヘイト被害者不在の刑事法廷

更新日:2022年3月3日

無反省、悪質性、危険性の根拠とすべきである決定的な事情を、単に無視するどころか、あろうことか差別を正当化の根拠とし、量刑軽減の理由に使ってしまった京都地裁R1.11.29判決。後世に、このまま残してしまうわけにはいきません。以下は、地裁判決がでる直前の時期、つまり刑事裁判の審理中であったR1.9月に書き下ろしていた文章です。その後、予想外の京都地裁判決を受け、何としても大阪高裁で「公益目的」を否定しなくてはいけない危機的な状況になっています。京都地裁判決の問題性について考えていただく一助となれば、と思い、公開します。


地裁判決への抗議にご賛同いただける方は、以下から賛同表明いただけるとありがたいです。

7月3日に担当の大阪高等検察庁に持参する予定ですので、集約期限を6/30午後5時まで延長させていただきます。第1回期日 7/13(月)の傍聴支援行動にも、何卒、多数の方にお越しいただけますよう、よろしくお願いいたします。



 

「刑事法廷では被害者は置き去りになる。報道に関わる皆さんにはにはぜひともヘイト被害者の切実な声を広めるためにご協力いただきたい。」

被害者の告訴代理人として望んだ記者会見で、私はこう訴えた。これを受け、各社は概ね、被害者の声を報道してくれた。この事案に割くことのできる限られた文字数の中で、よく拾い上げてくれたように感じた。記者会見は約90分間にもなって、少なくとも記者のみなさんには、学校関係者が感じている切迫感を理解してもらえたのではないかと、手応えを感じた。


同学園の柴松枝理事は、公判後の会見で、

「被告人から反省の態度は見られず、この先も不安のなかで学校生活を送らなければならないこどもたちのことを思うと、本当に腹立たしいし、悔しい」と語った。 

(京都新聞、R1.9.5)

「10年前の悪夢を思い出した。」

…学校法人京都朝鮮学園と弁護団は記者会見を開き、憤りをあらわにした。…間違ったことは言っていないと述べた(被告人に対し)、柴松枝理事は

「鳥肌が立った。09年のような状態がいつ起こってもおかしくない」

と語った。(毎日新聞、R1.9.5)


弁護団コメントも、以下のように整理して掲載いただいた。

  • 「多数の子どもたちを預かる学園の立場からも許せない。法廷で(無反省な態度を)あからさまにすることに怒りを禁じ得ない。」とする一方、「日本の刑事司法は差別(的動機による犯罪)に非常に甘かった。しかし、それが変わりつつある」と今回の裁判の意義を述べた。(毎日新聞)

  • 「明らかな名誉毀損で攻撃の意図があった」と主張した。(朝日新聞

  • 「被告は全く反省しておらず、朝鮮学校に通う子どもら被害者にとって恐ろしいことだ」と訴えた。(読売新聞

しかし、一般読者のみなさんを念頭においたときに、これらの記事内容をもって十分に被害者の絶望感が伝えられるか、と言われれば、やや心許ない。「言葉の犯罪」である名誉棄損行為によって、そこまで大きな被害があるのだろうか、と思われているのではないか。なぜ、今回の言動がマイノリティ被害者にとっては、個人としての尊厳(憲法13条参照)の根本を汚されることになるのか。さらには身体的な暴力に晒される不安すらをも生み出す作用が生じるのか。上記の記事を読んだだけでは、十分に表現されているとはいえない。一般読者には、ぴんとこないはずである。


この特徴を理解してもらうためには、ヘイト被害の特徴を詳細に説明することが、どうしても必要となる。例えば、

そして法廷で公然と無反省な態度が示されること、さらに、その態度がメディア報道されることによって飛躍的にこうした作用が強化されてしまう。この部分を表現するためにも、記者のみなさんにおいては、今回の事件でヘイト被害の特徴が、在日コリアンの心情の風景として、具体的にどのように現れてくるのか、ぜひともフォローアップの記事をお願いしたい。子どもたちの尊厳と安心を取り戻すことの大切さを広めていただきたい。単発の裁判期日の報道だけで終わってしまうと、被告人の側の主張のほうが世間により強い印象を残したままになってしまいかねない。

 

司法記事のなかでは、貴重な文字数を割り付けてでも、何かしら「全国初」「異例」という指摘を行う慣習があるようだ。紋切り型となりがちで、例えば、本件では「ヘイトスピーチで名誉毀損罪で公判請求されるのは全国初」「ヘイトスピーチをめぐる名誉毀損罪での公判は異例」という感じである。


しかし、本件で「全国初」で「異例」な特徴として、メディアが問題提起すべき点はこのようななことだったのだろうか。


関心を持ってくださる一般の人々に、改めて周知してもらいたいポイントはどこにあるのか。社会問題と位置づけるべき一番大切なポイントはどういうところにあるのか。もう一度、私なりに考えてみた。そして、本件で「特異」「異例」な部分は、以下のように集約できるのではないかとの結論に至った。

  • ヘイトスピーチ行為者として社会的非難を受け、刑務所での服役及び保護観察の矯正指導を経てきた人物が、あえて自身の犯罪行為地である学校跡地を訪れ、同種ヘイト犯罪を犯したこと。


 この被告人が、本件では、前刑の執行終了後わずか7ヶ月後に本件名誉毀損行為を公然と敢行したこと。法廷において、反省の必要はないと言い切ったこと。さらにいうならば、この被告人という人物は、過去において、例えば執行猶予期間中に(つまり執行猶予が取り消されて自身が刑務所に入る帰結になることをも厭わず)別の強要罪を敢行するなど、極めて挑発的で危険な人物像を自ら演出してきたこと。そこには新たな被害者が生まれ、さらなる絶望感を与えることなどに対する躊躇など何にもない。

 一般の新聞読者からすれば、このような被告人の人物像や本件の特徴を知らされることで、より的確に学園の児童や学父母らに与えたダメージの実像を想像していただけるようになるのではないか。


 

被告人たちは、これまで10年以上にわたって、差別街宣を積み重ねてきた。ある時期までは、これら数々の過激な行為の蓄積からくる差別扇動の影響力・動員力は凄まじかったが、司法の断罪を受けて世論の支持を失い、かつ服役までさせられてその力は大きく減殺された。少なくとも一時的には。しかし、被告人たちは、今日、これを再び活性化するためには、さほど大がかりな違法行為が必要でないことを知り尽くしていると思う。


確かに、今回の行為だけを切り離してみれば、数々の派手な悪事のうえに「ちょこん」と乗っかっているだけ、そのような印象を持たれるかもしれない。被告人の過去の前科のなかには、今回の犯行態様と比較して、よっぽど悪質性が高いものがあった。しかし、被告人のねらいは新たな行為の単発からの効果ではない。被告人は、過去に、司法の断罪を受けていったんは無力化された社会的影響力を、完全復活させることを目論んでいるのだ。過去の過激かつ挑発的な街宣行為による蓄積による破壊力の復活を狙っている。


威嚇、威圧といった客観的に見ても不正義極まりない野蛮な作用を利用し、そこに差別扇動の社会的作用を編み込んで破壊力を飛躍的に高めるという彼らの手法。そして「政治的言論」のカモフラージュで世間と司法を欺き続け、やり方はまずかったけれども目的は正当だった、などとの評価を得る。刑務所に入れられても、高額な賠償を課されても、自分たちはひるむことはないんだぞ、間違っていたのは日本の司法判断のほうだった、それを証明するのだ、その証拠に日本の世論の賛同も得ているのだ。判決だって最新のものはそう言ってる。このようなメッセージを発信できさえすればそれだけでよい。被告人らが得られるものには絶大なものがある。派手な街宣を繰り返す必要はないのだ。

 

こうしたあからさまな法律無視の態度を前に、裁判官の姿勢、検察・警察捜査官の姿勢、つまり日本の刑事司法のあり方が問われてきたのが本件である。被害マイノリティ児童の保護という観点から、厳しく処罰して、こんな挑発的な考え方を根本から否定しなければならないのは当然のことである。遅ればせながらも、日本の既存の法秩序は、(少なくとも民事において)人種差別禁止の理念をベースに据える裁判例を重ね、何年もかけて基礎固めをしてきた。今に至って、象徴的な行動で、社会全体に対して、その考え方のベースを揺らがせようと企てる被告人の野望は、日本の刑事司法によって打ち砕かれなくてはならない。


児童たち、学父母たちの安心と日本社会への信頼感が、またもや脅威に晒されている。被害当事者が「十年前と同じだ、何も変わらない。あれだけがんばって裁判をやりとげて、何か変わったのだろうか。被告人だけでない。日本社会の差別意識も変わらないのか」と絶望に打ちひしがれている。起訴検察官が、名誉毀損を選択したこと、そして、起訴して新たな実刑判決を求めて行く判断については、被告人の際だった悪質性、被害者に与えた脅威等、本件の具体的事情をふまえた対応に照らしてみれば、「異例」のことなどではなく、至極当然のことと位置づけたほうがよかったように思う。


起訴に至った重大事件において、事実関係に争いがなければ、大半の刑事事件では、法廷において被告人は反省の弁を述べ、再犯防止を誓う。これによって、かなりの部分、法秩序の回復が図られる。不十分かもしれないが、そこに真意を感じられる被告人であれば、被害者の安心も回復される。本件は違う。被告人は、概略、前回の事件についてすら反省すべき点はないと公然と断言し、法秩序に挑戦的な態度を示している。だからこそ、被害者の不安を著しく高めているのだ。


こうした考慮をふまえて、私個人の意見を述べるならば、本件被告人が、不合理な弁解を展開する弁護方針を選択したことこそが、本件において最も「異例」なこととして注目されねばならない。その是非について一般的な議論を喚起し、様々な観点から考察を深め、そして、実刑を辞さず重罰とすべき結論を根拠づける。

  • (※2019.9月当時としての記述。今日2020.6月時点でいうと、控訴審はもはや、刑事訴訟法上、量刑を重く変更することはできない。)


量刑において考慮されるべき事情についても整理して、日本の司法に根付かせる必要がある。


本件と同様、被告人の側から「表現の自由」に依拠した正当性の主張が行われた従前の裁判において、私たちは、繰り返し、

あるいは、私が、

を指摘してきた。


過去の裁判(主として民事)においては、被告人の手続保障・主張を十二分に尽くさせ、法廷におけるヘイトスピーチ的主張を垂れ流させるに任せ、被害者を二次被害にも晒すことをも辞せず、大部の証拠に照らし慎重な審理を重視してきたのである。こうした審理を経た最終判断として、「転倒した因果関係」「隠れみの」の傾向を認め、判決理由の基礎に据えてきた。そこには、テレビ番組での一言とか、はやりのディベートとかで指摘される意見とは、全く異質の重みが生まれると、私は信じてきた。裁判というものは、やけに時間はかかる、被害者の負担は重い、それでも、こうした重みのある理性的な判断を示していく営みにこそ、マイノリティは賭けるべきだし、司法の真価がある、と。けれども、わずか数年たたずして日本の刑事司法が手のひらを返し、そうした過去のすばらしい遺産を生かそうとしないならば、これまでの被害者の努力が無意味になってしまうのだ。


今回の被告人の法廷での態度を、日本の司法はどう受け止めればいいのか、あるいは、日本社会はどう受け止めればよいのか。ぜひとも一般市民のみなさんからも声を上げていただきたい。当然の判決を下せるように、裁判官の勇気を後押ししていただきたい。

 

追記・雑感: 

当然の判決を下すことにかなりの勇気が必要なのが、今日の日本社会、日本の刑事司法の現実だけれども、それは悲観すべきことではないと思う。この種の勇気はいつの時代であっても、司法が多数派の感情的世論に汲みせず、少数者の正義をかなえる場面においては、常に必要とされてきたものだと思うからです。そうすると、数々の勇気ある歴史的判決の背景には必ず、市民社会の応援があったはず、ということになる。声を上げた市民人一人の方々にもまた、別の意味での勇気を見せてくださったはずです。

今、日本全国の在日コリアンの子どもたちが安心して暮らせる社会を作っていくために、みなさん一人一人の声が力となります。どうか、よろしくお願いいたします。

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