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第2回 ジェノサイドへの因果って本当か? ~上向きピラミッド・再考

  • kyotojiken-hate
  • 2024年12月8日
  • 読了時間: 14分

  はじめに

 前回・第1回の記事では、上向き「ヘイトのピラミッド」では個人の責任に焦点が当たりがち、政府の責任や被害者の視点、歴史的な背景が見落とされやすい問題性について考察しました。今回は、歴史的事例をふりかえり、過去の大規模なジェノサイドは主に国家や権力者のトップダウンの影響力で主導された側面を見ていきます。そして、個人の内心がジェノサイドを引き起こす、といったつながりを再考し、上向きピラミッドの前提に疑問を投げかけたいと思います。



  「リミッター」   ~ 一般大衆の倫理観とジェノサイドへの抵抗

 NHK取材班のドキュメンタリーと、その取材に基づく鈴木 冬悠人氏の著作(Amazonページ)を読んで驚きました。ここには、第二次世界大戦末期、日本に対する焼夷弾の使用をめぐってアメリカ政府内部で繰り広げられた駆け引きが報告されており、今日の私たちが進むべき指針が示されています。

 もともと米軍内部には根強くあった焼夷弾使用の積極論でしたが、これを非人道的であるとして押し止めていたのが市民層だった、というのです。おぞましいことに、軍では、都市爆撃によって日本市民の大量虐殺をいかに効率的に遂行しうるか、机上の検討が繰り返し行われていました。まだ原爆という選択肢がなかった頃のことです。そのなかには、関東大震災の火災被害の広がりを子細に検討し、実物大の日本の木造家屋模型の町並みを作って実験を重ねたものもありました。そして、焼夷弾爆撃は東京の町と人を効果的に焼き払い、戦争を指示する士気を挫くことに役立つだろうと分析されます。しかし、この種の報告書は、結論部分では「人道的な配慮のために民間人への直接攻撃は、空爆目標からは除外される」等と総括されるのが常でした。鈴木氏によれば「一般市民を攻撃対象と考える思想は、長らく航空戦略の表舞台から姿を消していた。なぜなら大衆に受け入れられないことを、航空軍のメンバーたちが理解していたからだ。」「(陸軍、海軍からの)独立を目指している航空軍にとって、アメリカ国民の評価は非常に重要であった。反感をもたれないように配慮される中で、道義的な問題を抱える戦術は、表向きは排除されていた」というのです。

 その後、1943年ころまで市民層による抑止力は健全に維持されていましたが、このころになると、ルーズベルト大統領は焦りを抱きはじめていました。かつては中国都市での市民爆撃の非人道性を説いて日本軍を公然と非難していた大統領だったのですが、ナチスのベルリン陥落の後、政治的成果を性急に求めるようになります。それでも依然、市民層の抵抗感が、大統領はじめとする指導者層への抑止として効果的に働いていたこと、これが注目すべき一つ目の点です。

 次に、同じく注目に値するのが、その直後の時期において、こうした市民層の倫理的なリミッターが短期間で切り崩されてしまったことです。わずか1〜2年程度の間で、いったい、何があって、どのような条件がそろって、そんな切り崩しが可能となつたのでしょうか。その過程には、今日の2014年の世界情勢の理解や、ネット市民の攻撃行動の理解にも役立つ、共通項がありそうです。


※1 もともと、1941年の真珠湾攻撃直後、日本人および日系アメリカ人に対する不信感と敵意が高まったときでも、この時点では、一般市民の道徳的な「リミッター」はまだ機能していました。しかし、戦争が進むにつれ、政府の政策とプロパガンダが市民意識を大きく変化させました。
 1942年、ルーズベルト大統領が発令した大統領令9066号によって、約12万人の日系アメリカ人が強制収容所に送られます。人々は、この政策は安全保障のため必要なんだと納得していた様子でしたが、その内実は人種的偏見と戦時下の異様な国民感情に基づくものと言ってよいでしょう。この強制収容は、反日感情をアメリカ社会全体に固定化し、差別意識を強化する作用も及ぼしたようです。同じ時期、政府はメディアを通じて、日本人を残虐で野蛮な存在として描くプロパガンダを展開しました。ディズニー映画『空軍力による勝利(Victory Through Air Power)』『コマンド・ダック』のような作品や、漫画、ポスターがその一例です。(消費者心理の調査手法「フォーカスグループ」の父マートンが、反ナチスをアメリカ国民に伝えるのに最も効果的に伝えるために戦争情報局に重用されていたのもこの時期でした。)これらのプロパガンダによって、日本人への敵意が煽られる一方、原爆投下や無差別爆撃に対する道徳的な抵抗感が麻痺していきました。
 また、「日本軍が中国の都市を無差別爆撃した」という事実が報復感情を後押ししました。「敵がやったのだから同じ仕打ちを」というレトリックは、倫理的な葛藤を解消し、市民感情を戦争の大義名分へと結びつける役割を果たしました。いみじくも、1939年に米空軍内の戦術学校で用いられていたテキストでは、このような展開をピタリと予測していました。上述の人道的な配慮による抑制を述べたうえで「しかしながら、報復としてはあり得る手段であると頭に入れておくべきだ。日本がこの攻撃手法を採用しないという保証はない」としました。その後、1943年ころまでには、日本は、中国に対する重慶爆撃を繰り返して国際的な非難を浴びるようになっていました。かかる状況は、焼夷弾爆撃を願ってやまない米軍中枢や、ルーズベルト大統領にとって「好都合だった」(鈴木氏の言)とさえ評されているところです。
 アメリカ軍は当初、非戦闘員への攻撃を避ける方針を取っていましたが、巨額の予算を当時ながらも思うような戦況の改善が見られませんでした。大統領を筆頭に、莫大な予算等かを正当化する戦果ないし政治的成果を求める焦りが強まっていきます。そして、抜本的な戦略の転換を目指すようになるのです。あれほど先進的と美化して喧伝されていた「精密爆撃」の理想をあきらめ、1945年2月以降、カーチス・ルメイ少将の指揮の下、大規模な無差別爆撃が採用され、都市全体を標的とする攻撃が行われていく経過を辿るのです。
このとき、市民の道徳的リミッターの解体なくしてこうした政策転換が受け入れられる余地はなかったはずです。政府の差別政策の蓄積、人種差別的プロパガンダ、メディアによる描写、そして報復感情が重なり、戦争の大義名分が強調されていきました。結果、アメリカ社会は日本の都市への無差別爆撃を容認する空気へと変化していったのです。

 ここから、ジェノサイドが実行されうる素地は、国家による差別扇動で、大衆の倫理的ブレーキを解除の企てに腐心することで、はじめて生まれてくる、という仮説が示唆されます。すなわち、一般大衆は、仮に社会内に偏見や差別が蔓延していたとしても、ことジェノサイドに対しては基本的には倫理的なリミッターを維持できる。つまり、ジェノサイドのような大量虐殺に対しては生理的な反発を抱く人間性を共有している。社会に一定頻度で、一部の極端な人々によってヘイトクライムが発生することまであるかもしれない。だとしても、市民層全体としてはジェノサイドによる大量虐殺までは許さない。そうした共通の倫理観を維持しうるものである。

どうでしょうか、この仮説が支持しうるならば、ずいぶんと風景が変わってくるのではないでしょうか。それでは、以下、仮説の是非を、さらに論を進めていきたいと思います。


  国家の差別扇動とジェノサイドの実行

 この点、他の主要なジェノサイドの歴史を見ても、上記仮説は裏付けられているように感じます。

 例えば、ナチス・ドイツのホロコーストです。反ユダヤ主義のヘイトスピーチを規制に使える法律はありました。罰則も伴い、訴追も積極的に行われていました。実際に収監された人々のことはセンセーショナルに報道されました。これらはジェノサイド実行を防ぐ要因とはなりませんでした。ナチス政権により、政治的暴力のほうが放任され、政府自ら表現の弾圧に従事していたのですから無理はありません。反ユダヤ主義が国家主導で煽動され、法律や政策を通じてユダヤ人の排除が制度化されました。そしてジェノサイド遂行へと発展していく、といった経過を辿りました。

 次の例は日本です。1923年に関東大震災で、多くの朝鮮人が自警団によって虐殺されたときも共通しています。注目すべきは、このときのジェノサイドも、やはり個人の内心から自然発生的に発展したようなものではなかったのではないか。国家の行動によって引き起こされていたことではないか。この事件では、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマ、自警団が暴徒化の背景にあったこのデマですが、一部の政府や警察が意図的に流したものだったといいます。国家が人々の差別意識を扇動し利用して、人々を暴力行為へ導いたことのほうにこそ、私たちの批判的な視線を向けるべきように思うのです。

事件の後、政府や警察の責任はほとんど追及されず、さらには、個別の加害者たちも軽い罰で済まされています。マクロ・インバリデーション判決が続々と出されていたわけです。





 もし、この仮説が真ならば、本気でジェノサイドを防ぎたいということであれば、加害個人のなかの内心の偏見や先入観にとらわれ、振り回されすぎる前に、日本政府という国家や権力者が差別をどのように拡大したのかを明らかにすることのほうが重要ということになります。そして、有権者として、あるいは選挙権を持たない市民として、どのように対峙するか、という課題で運動論を組み立てる。

 ヘイトクライムに対しては、他の犯罪と「公平・平等に」訴追をし、個人の責任をどの範囲で問えるのか、証拠に基づいて見極め、判決理由として示すことを求めていくべき、というのが私の意見です。「罪を憎んで、人を憎まず」の精神で、「罪を憎みきって」行為の害悪ないし差別被害の拡散性と重層性について判決理由で捉えきること、それから、被告人の責任の範囲を冷静に見極めることの両輪が伴う刑事司法とする。これによって、巨悪を眠らせず、本来向けられるべき批判の矢の強度と解像度を上げていくことが可能となるでしょう。こうした司法判断の積み重ねによって、適正な歴史認識や社会認識、そして反差別の理念が同時に示される。そして、こうした地道な一件ごとの積み重ねがあって、ようやく加害者・被害者間の対話への糸口が開かれるのではないでしょうか。


  個人の内心。ジェノサイドとの断絶


「ヘイトのピラミッド」は、個人の偏見や先入観が積み重なって、ジェノサイドに至るとする連続性を強調しがちです。しかし、これは歴史に照らし、権力者たち、政府、統治する側の確信犯的な関与の寄与寄割合を軽視してしまいがちです。ジェノサイドと個々人の内心には明確な断絶があります。ジェノサイドは国家や権力者のトップダウンの差別扇動によって引き起こされるものであり、個人の内心から自然発生的に生じるものではない、ということをふまえて、各種対策を議論すべきと思います。

私たち市民層こそが、個人の尊厳というリアリティから、異文化や他者への理解・共通項を広げていくことで、「国民国家」の幻想やフィクションがあおり立てる臆病風に対峙していくアプローチを確立すべきです。力を合わせて知恵を絞るべき、待ったなしの局面に置かれているはずなのです。それなのに、あろうことか「国民国家」の対立的なリアリズムの世界観を、個人間にも浸食させてしまうようでは、為政者たちの思うツボです。泥沼で解決の道筋を自らなくしていってしまうようなものです。


※2 国際政治の「リアリズム」という考え方があります。国際政治や社会理論で使われる概念です。「国家や個人が、自身の利益を最優先に行動する」という考え方を指します。この理論では、国家同士は常に競争し、自国の安全や利益を守るためには対立や武力行使も辞さないとされます。
 この国家間の対立を所与の前提とする「リアリズム」という考え方が、国内における個人間の関係性に流用されはじめるときには、強く警戒すべきです。
 たとえば、国内のある集団と他の集団の線引きと違いが殊更に強調され、これらが相互に敵対的で競争的なものだとの考えが支配的になった社会では、偏見や差別が深まりやすくなります。「他者を警戒し、自分の身を守らなければならない」という考えが強まり、他者への不信感や偏見から、差別意識が強まりやすくなる素地が生まれます。こうした状況では、国家が差別を煽動するのがより容易になり、一般市民の「耐性」や倫理的なブレーキが失われる恐れがあります。社会の分断を防ぐためには、このようなリアリズム的な思考の魔力で不安や敵視を扇動しようとする企てがはびこっていないか、市民が為政者のレトリックに目を光らせないといけません。



  偏見や先入観と人間の成長

 人間は神さまではなく、あらゆるカテゴリーについて、偏見や先入観を全く持たないというのは不自然です。重要なのは、例えば、そうした内心を持ったときに行動を起こすかどうか、行動する前に考える力やリテラシーを持つことです。動機づけとして作用したかもしれない偏見や先入観は、悪しきもの、「罪」として評価すべきは所与の前提としてもよいかもしれません。しかし、それと同時に、これを発言や行動によって発露させた「人」のことまで悪魔化してしまうべきではない。学びや社会を豊かにするきっかけをもたらします。もちろん犯罪行為であれば、他の差別動機が関与しない同等の、それ相応の処罰を課されるべきでしょう。しかし、それをきっかけにして、刑事法廷や一連の刑事事件での弁護情状活動を通して「人」が変わっていけるような反差別モデルを構築していくべきです。

 (もちろん、悪質性の程度にもよりますが…) 発想の転換として、人々が人生を充実させるための目的を与えるものとして、その瞬間的な存在や、一時的な発生させた「人」に対しては「勇気ある人」「自らの心に誠実な人」として肯定的に包容していくくらいのほうが良い事例も、なかには含まれているのではないでしょうか。

※3 イベント企画者のみなさんは、こうした発露を予め想定することが求められます。アクティブ・バイスタンダーとしてその瞬間に発露された「罪」に対処しその場の差別被害を最小限にする備えが必須となります。「罪」を発露した「人」を非難して黙らせることよりも、もっともっと大事なのは、その後の対話と学びと、その後の行動の促進です。それを克服して成長していく過程こそが重要とさえいえるかもしれない。「お痛」をさせる勇気。しかし、それが出会いを生み、学び、謝罪し、具体的な行動で改善していく個人を育てる。その過程を信じる力を取り戻すことができれば、つまり日本社会に対する信頼を回復することができれば、将来的に実際にその人の改心が実現するかどうかは誰にもわからない段階であっても、もう既に、当初の「罪」がもたらした害悪の大半は解消されていくのではないでしょうか。

 こうしたプロセスにこそ重きを置いて、反差別の議論を進めるべきではないかと思うのです。違法行為が行われた瞬間での評価ではなく、長期的な視点で成長を促し、相互理解を深めるアプローチが求められます。


  まとめ

 私たちは、ジェノサイドを「絶対悪」として、すでに広く共有された認識を持っています。その一方で、偏見や先入観そのものを、過度な敵視の対象とすることは必ずしも得策ではありません。なぜなら、誰もが少なからず何らかの偏見や先入観を有しているからです。大切なのは、そうした「罪」や「人」を「存在してはならないもの」と一律に排除するのでなく、学びや対話のきっかけへと転じ、プロセスへと導く柔軟さです。

 たとえ一時的に偏見を抱いたとしても、その人が自分自身の偏見に気づき、考え直し、他者との対話を通じて理解を深めるプロセスを信じること。こうした態度を社会全体で育むことは、国家や権力者による差別扇動に対する「免疫」につながっていきます。つまり、「絶対に偏見を持ってはならない」という硬直した理想ではなく、偏見に直面したときにそれを乗り越えていく経験値を積み重ねることで、私たちは国家の情報操作や対立煽動に巻き込まれにくくなるのです。

 過度な「正しさ」の押し付けによって、自分には偏見がない、と信じ込んでしまえば、かえって異なる意見や価値観に触れたとき、適切な対話が困難になりかねません。そうした社会では、新たな分断や憎悪が起こった際に見抜く目が曇り、外部からの差別的プロパガンダへの対抗力が低下してしまいます。偏見は確かに「好ましくない状態」かもしれませんが、それを「改善への入り口」と考え、そこから学びと理解を積み上げていく取り組みこそが、有事の際に社会を強くするように思います。


 次回、最終回となる連載第3回では、こうした視点を踏まえ、具体的にどのような対応策が考えられるのか、差別問題への新たなアプローチを探ってみたいと思います。


 偏見や先入観を持つこと自体は人間として自然なことであり、それを克服し成長していくプロセスが社会全体の成熟につながるのではないか。次回、最終回となる連載第3回の記事では、これらの視点を踏まえて、差別問題に対する新たなアプローチについて考えてみたいと思います。

 
 

© 2015 by Shiki Tomimasu, Attorney-at-law, Kyoto

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