第1回 「ヘイト・ピラミッド」に描かれないもの:政府の責任、歴史の重み、被害者の経験を考える
- kyotojiken-hate
- 2024年11月29日
- 読了時間: 12分
更新日:2024年12月8日
こんにちは。皆さんは「ヘイトのピラミッド」という図をご存じでしょうか?これはアンチ・ディファメーション・リーグ(ADL)が提唱したモデルで、差別や偏見がどのように深刻化し、最終的にはジェノサイドに至るかを上向きのピラミッドで示したものです。

この図では、無意識の偏見やステレオタイプ、差別的なジョークや言葉から始まり、嫌がらせ、社会的排除、暴力、そしてジェノサイドへと段階的に進行する様子が描かれています。しかし、このモデルには重要な視点が欠けており、ここから導かれる反ヘイト対策には限界のみならず深刻な弊害すらもあると感じています。
本記事では、「ヘイトのピラミッド」の問題点を指摘し、見落とされがちな政府や司法の責任、歴史的な背景、そして被害者の視点を取り入れた新たなモデルの提案を行います。
個人責任への過度な焦点
まず、この上向きピラミッドは、差別の進行を主に個人の内心や行動に帰属させています。ヘイト的な志向を持つ個人の集合体が、差別の連鎖を生み出し、最終的にはジェノサイドに至るとしています。このモデルでは、無意識の偏見を持つ人々や、差別的な言動をする個人が道義的に非難され、監視や制裁の対象とされがちです。
しかし、このような個人責任への過度な焦点は、いくつかの危険性を孕んでいます。まず、ピラミッドが積み上がっていくような連続性が意識されるなかで、次第に内心の偏見や無意識のステレオタイプにまで非難の対象が拡張されていくおそれがあります。個人の内面への監視や、思想統制的なアプローチを正当化してしまう危険があります。また、差別の問題を個人の資質や行動だけに還元することで、社会構造や歴史的背景、政府や司法の役割といった重要な要素を見落としてしまいます。
犯罪の禁圧、差別解消への効果的なモデルなのか
実際のヘイトクライムて、この上向きピラミッドが有益な示唆を与えているのか再考する必要があります。加害者個人の資質だけでこれらの犯罪が引き起こされているわけではなく、国家や社会の構造、歴史的な経緯など、複雑な要因が絡み合っているのです。
米国の統計によれば、ヘイトクライムの加害者は他の犯罪と比較して、少年や精神疾患、発達障害を抱える者が多いと指摘されています。例えば、大人の真似事をして「強さ」を誇示しようとする年少者もいたとします。きびしく結果責任を問い、退学処分や少年院への隔離など厳罰で排除する対応こそが妥当と考えるべきでしょうか。そうした価値観が、社会内で強まっていくことは、果たして、反差別運動の精神と相容れるものなのでしょうか
個人への制裁がもたらす危険性
個人の行為に対する制裁や処罰を強調することは、社会からの排除を促進し、差別の構造を維持・強化してしまう可能性があります。特に、加害者が少年や責任能力に問題を抱える場合、厳罰を正当化しうるほどの社会的非難が可能なのか。もともと持っていた差別意識、被害者意識にも影響され、そこまで言うのは可哀想だ、とか、不当なつるしあげだ、などとマジョリティの側から厳罰を疑問視する風潮が生まれ出てくるのは時間の問題かと思われます。そのようなマジョリティから漏れ出てくる本音に、よりいっそう被害者は傷つくことでしょう。
これでは、異なる立ち位置の人々は相互に不信感を強まるばかりで、新たな分断や対立を生み出しかねません。結果、むしろ差別社会の再生産に寄与してしまう恐れがあります。
見落とされるもの ~ 政府の責任と司法の差別性
次に、この上向きピラミッドでは、政府や司法機関の責任が全く描かれていません。差別を生み出し、維持してきた政府や司法の役割が不問にされているのです。また、時間軸が欠如しており、差別の歴史的な蓄積や被害者の長年にわたる経験が考慮されていません。
大阪9/7シンポジウムでの気づき
2024年9月7日に大阪市内で開催されたシンポジウム(在日本朝鮮人人権協会主催)に参加しました。参加者への配布資料の中で、上向きピラミッドが紹介されており、二人の弁護士からマイノリティ当事者の思いが語られました。そのとき、ふと、このピラミッド図から、次の二つの重要な要素が完全に抜け落ちていることに気づきました。
政府と司法の差別性。これを責任不問とするのか:差別を生み出し、差別社会の維持に加担してきた政府や司法の責任が描かれていない。
時間軸の欠如:差別の歴史的な蓄積や被害者の長年にわたる被害体験が考慮されていない。
警察官と司法の差別的対応
朝鮮学校事件では、ヘイト犯罪が子どもたちの面前で行われているにもかかわらず、警察官たちは約1時間もの間、全く静止しようとしませんでした。被害者は、差別者だけでなく、その差別を黙認する警察官たちの姿に大きな衝撃を受けました。これは、日本社会全体が差別を許容している象徴ともいえるでしょう。
同様に、ウトロ地区での事件でも、警察は被害者の不安に共感せず、安易に漏電の可能性を指摘して捜査を切り上げてしまいました。
こうした警察官の問題のある姿勢を描きこんで、効果的に表現し問題提起する場所が、どうも上向きピラミッドのなかに見つけづらいように思います。
裁判官や検察官の問題
裁判所においても、差別的な判決が下されることがあります。高校無償化裁判では、政府による朝鮮学校差別を是認する判決が下されました。また、刑事裁判では、名誉毀損行為に「専ら公益性」を認め、被告人を軽い罰金刑に処したケースもあります。
さらに、高く評価されている京都第一初級学校事件の民事裁判においても根本的な問題が見られます。裁判官は被害の認定において民族教育の観点を注意深く取り除いていました。これは「マクロ・インバリデーション」と呼ばれるもので、被害者の核心的な部分を無視し、差別の構造を見えにくくしてしまう行為です。裁判所が民族教育に対する差別を正面から認めないことで、被害者の長年にわたる苦しみや歴史的背景が軽視される結果となっています。このような司法の対応も、上向きピラミッドでは描かれていない重要な問題です。
また、2009年の朝鮮学校事件では、検察官が在特会側の主張を丸呑みし、学校側を都市公園法違反の略式罰金に処しました。長年地域に根ざし、地方自治体と協働してきた学校に対するこのような刑事処分は、差別に荷担する行為といえるでしょう。
これらの司法関係者の明白な差別性は、上向きピラミッドでは全く捉えられていません。
なぜ司法は差別的判断を繰り返すのか
良心的な市民にとって、これらの差別的な司法判断は理解しがたいものでしょう。法の理念からしても首をかしげざるを得ません。大学生のみなさんに講演をするときなど、会場からの素朴な質問としてどうしてそうなっているのか理解できない、なぜですか、という質問をいただき、答えに窮することがあります。確かに、司法手続は、表向きでは「正義」や「人権擁護」を掲げています。
しかし、歴史的な背景を考慮すると、日本の司法制度が政府の統治の一翼を担ってきたという事実があります。植民地支配で民族性を奪い、差別社会を維持・強化してきた日本政府が、無思慮・無知を装い、自覚的な健忘で差別を再生産しているという厳然たる事実があります。
刑事司法制度自体が差別を再生産する装置として機能している。それを日本政府は是認している。植民地支配の時代から、司法は国家の政策を正当化し、差別的な法律や判決を通じて差別社会を維持・強化してきました。
このように、司法が制度的に差別に加担している現実は、個人の責任を強調する上向きピラミッドでは見落とされてしまいがちです。とかげのしっぽきりになってしまいます。差別の言説を真に受けて空気を読めずに、あるいは「拡大自殺」しようなどといった自暴自棄で実行にまで移してしまった人に、ヘイト被害の全ての責任を押しつけて投獄し、社会から隔離し排除してしまうのは理不尽なことです。そのような排除社会の進展を、マイノリティ被害者が望んでいるとは到底思えません。そして、反ヘイト対策の名のもとで、こうした司法の本質に無警戒であってはいけないと思うのです。処罰権限の拡大を許し、判断の裁量の範囲を広げてしまうということは、逆方向のマイノリティの言論弾圧に悪用されかねない危険を孕んでいます。
歴史の重みと時間軸の欠如
差別や偏見は、一世代だけでなく、何世代にもわたって蓄積された体験を背景にしています。このため、一見、小さなやりとりと軽視されるような言動で、重大なダメージを受けている、といったことが頻発します。今日のマイノリティが受けている差別は、過去の植民地支配や歴史的な弾圧の蓄積と地続きです。しかし、上向きピラミッドでは、このような歴史の重みや時間軸が考慮されていません。
被害体験の蓄積とその影響
差別社会が政府によって維持・強化されることで、マイノリティは何世代にもわたって沈黙を強いられ、長期にわたる影響を受け続けます。しかし、私たちマジョリティが上向きピラミッドを見せられるとき、知らず知らずのうちに現在の社会現象だけに意識が向き、加害個人の行動だけを問題視するアプローチとなりがちです。
真っ白なキャンバスの錯覚
上向きピラミッドによって私たちの思考が規定されるとき、ヘイト加害者や偏見を持った人々がいなかった頃、社会は元々「真っ白な無垢なキャンバス」であるかのように錯覚してしまいます。そこに、悪意を持った個人が一人現れ、社会内にヘイト扇動が伝播し、集団を構成して、新たな社会問題が出現する。このような世界観を持っているわけです。

しかし、本当にそうなのか。実際のところは、ヘイト加害者を生み出す背景、差別の根底には、過去の政府の弾圧など、もともとの数々のマイノリティ弾圧の歴史的な蓄積や、これを受け継ぐ社会構造が存在します。こうした社会的背景から目をそむけて、派手な行為に従事した個人だけを非難するのは、個人に過大な責任非難を課し、とかげのしっぽきりとなってしまうでしょう。
「正義の味方」としての政府への依存の危険性
また、差別の問題を解決するために、政府を「正義の味方」として信頼し、法律による処罰や制裁を求めるアプローチも危険です。日本政府自身が植民地支配や差別の維持・強化に関与してきた歴史がある以上、その政府に処罰や制裁の権限を拡大することは得策ではありません。それは、差別を支えるマジョリティに、不当な攻撃を正当化する「社会的非難」の口実を与えることにもなりかねません。
被害者への想像力の限界と危険性
思考実験「想像してみましょう」には限界がある
この「真っ白なキャンバス」「正義の味方」の世界観に関連して、もう一つ考えるべき点があります。マジョリティに差別の問題を「自分ごと」として考えてもらうために、「あなたが同じことをされたらどう感じますか?」という問いかけがよく行われます。しかし、これは時間軸や歴史的な蓄積を無視した問いかけであり、実際にはマイノリティの被害体験を正確に想像することは難しいのです。

マジョリティが自分の立場をマイノリティに置き換えて考えるだけでは、差別の深刻さや歴史的な背景を理解することは困難です。差別被害の蓄積や、民族教育に対する深い思い入れ、国家間での暴力の歴史などを学ばずに想像しようとしても、限界があります。
※ さらに、このような浅い問いかけは、誤った言説を生み出す危険性があります。「日本人に対するヘイトだ」「マジョリティも同じくらい屈辱感を感じている」といった屁理屈が横行し、差別の「肥やし」を社会に提供してしまいます。マイノリティが受ける差別被害は、表面的な「屈辱感」では語れない深いものがあります。歴史の蓄積を考慮しない上向きピラミッドでは、この点を理解しづらくしてしまいます。
刑事司法における責任非難の限界
個人の責任非難や故意責任を前提とする刑事司法では、「そんな深刻な被害が起きるなんて知らなかった」という弁明が情状弁護として正当化されます。これは、日本社会全体が負うべき非難を個人に被せて制裁を強めようとすることで生じるズレともいえます。
上向きピラミッドは、その非難の目を個人に向けやすくし、社会的関心を個々人の刑事責任の追求に集中させてしまいます。これは、本来の刑事司法の役割から外れた無理なアプローチであり、抑止効果を希求する中で、差別の構造的な問題を見落としてしまいます。
加害者と被害者の理解のギャップ
加害者側と被害者側には、極端な理解のギャップが存在します。マジョリティだけでなく、マイノリティの側もこのギャップを想像できていない場合が多いです。
加害者の無自覚と被害者の自明性
加害者は、自身の加害性に無自覚であり、他人の足を踏んでいることに気づいていないことが多いです。一方、被害者にとっては、その苦難や歴史的な蓄積はあまりにも自明であるため、他者に説明する必要を感じていないことが多いのです。このギャップがあるために、差別的な行為が無自覚に繰り返されてしまいます。
刑事罰プロセスでの溝の拡大
このような状況では、刑事罰を求めるプロセスの中で、マジョリティとマイノリティの理解の溝がさらに広がります。お互いに分かり合えず、恐怖や不信感を抱き、距離を置くことになります。その結果、差別の問題は解決されず、社会の分断が深まります。
新たな視点の提案 ~ 逆ピラミッドモデル
以上の問題点を踏まえ、差別の問題をより包括的に理解するために、新たな逆三角形のピラミッドモデルを提案します。

このモデルでは、逆三角形の上部に政府や国家権力を配置します。ここから差別的な政策やメッセージが下方に広がっていくイメージです。政府のメッセージが社会全体に浸透していく最下部には個人が位置し、社会の影響を受けて差別的な行動をとる構図です。
また、このモデルには時間軸を加えます。過去から現在への流れを示すことで、差別の歴史的な蓄積や被害者の長年にわたる経験を明確にします。これにより、差別の問題を現在だけでなく、歴史的な背景とともに理解することが可能になります。
逆ピラミッドモデルでは、被害者の視点や被害実態を重視します。被害者が感じている深い苦しみや、歴史的な蓄積による影響を考慮することで、差別の問題をより正確に理解できます。
まとめ
「ヘイトのピラミッド」は、差別の問題を理解するための一つのツールですが、その背後にある政府の責任、歴史の重み、被害者の視点を見落としてしまう危険性があります。個人責任への過度な焦点は、政府の責任逃れを許し、差別社会の解消に向けた真に効果的な解決から遠ざけてしまいます。
新たな逆ピラミッドモデルを通じて、差別の源泉を政府や社会構造に置き、歴史的な背景や被害者の視点を取り入れることで、差別の問題をより包括的に捉えることができます。これにより、社会の分断や排除を避け、真の解決策を見出す道筋が開けるでしょう。
(次回予告)
次回の記事では、歴史が示す具体的な事例を通じて、国家や権力者による差別扇動とジェノサイドの因果関係について深く考察してみたいと思います。