今回の京都地裁2019年判決は、「公益目的」の認定をめぐって 「表現の自由」の議論との関係を決定づける重要な判断となる。そのなかで、反ユダヤ主義に関する以下のサルトルの指摘が、在特会や日本第一党にも妥当するのであれば、彼らの発言内容に対して、憲法上の「表現の自由」の保護の趣旨は及ばないとの整理が可能なはずだ。
反ユダヤ主義者は憎悪を選んだが、それは憎悪が一つの信仰だからである。それは、言葉と理性をはじめから無価値にすることを選んだことにもなるのである。
どういうことかというと、これは、サルトルの書いた文章で次の3ページを読んでもらうのが一番わかりやすいと思う。(そして、ぜひ樋口教授が在特会について書いた「転倒した因果関係」 こちらの216頁 と読み比べてみてほしい。)
つまり「反ユダヤ主義者たちは、なんらかの事実から、理性にもとづいてにユダヤ人を差別しているわけではない。彼らの差別は感情的なものである。」ということ。となれば、「…差別に反対するものたちが、いくらかの事実をあげつらって彼らに反論しようとも、それはなんの効果もない。」(みなみの雑学コレクション)ということになる。これは、「公益目的」要件を考えるうえでは、とても大事なポイントだ。なぜなら、憲法学の用語を用いて言い換えるならば、「思想の自由市場」の出番ではない、ということになるから。そもそも、彼らの言動は、真実や真理の探求は何ら目的にすえられていないということで、いわゆる「言論」としての公益的な価値などないはずのものなのだ。
豊福弁護士が京都2009年事件の法廷での意見陳述でこの本を引用した。この本は、約50年後に出現した在特会の本質を驚くほど的確に言い当てている。「本書はユダヤ人だけでなく、人種差別一般について有益な示唆に富む本だ。…サルトルが...描き出した、差別に加担する者たちの心理は、今日にもそのまま通用する...」 (みなみの雑学コレクション) と評される。
在特会の「表現行為であるかのような装い」は、差別攻撃をごまかす「隠れみの」である。
樋口教授は、「転倒した因果関係」という表現でこれを指摘した。徳島事件の裁判のなかでは、こうした本質を一つの重要な立証課題として位置づけ、裁判官に理解させることを目指した。
京都事件が起きる前から、以下のような指摘があった。
「嫌韓流」の土俵にのって、無数に増産されるテキスト一つ一つに対応していては、議論は閉じていき消耗していくばかりである。 「日韓 新たな始まりのための20章」の「はじめに」より
私も、法廷で、被告や被告人から延々と紡ぎ出されるこの種の「無数のテキスト」を聞かされながら、改めてそのとおりだと感じた。何も生み出さない不毛な「事実」の朗読に暗澹たる気持ちになった。しかし同時に、この種の「偽りの議論」を、すべからく根っこからぶったぎれるような理屈がどこかにあるはずだ、とも感じていた。
この観点において、名誉毀損の関係で鍵を握るのが「公益目的」要件ということになる。この要件が落ちることがあらかじめ明らかにできる事案においては、法廷で、真実性の主張・立証などという名目で、被告人にヘイトの独演ステージを許す必要はなくなる。目的がどこにあるのか、その見極めにおいて、サルトルの示唆するところは意識しておきたい。
※ ちなみに、サルトルは本書で「フランスにおいて、さらには世界全体において、ユダヤ人がひとりでも自分の生命の危機を感じるようなことがある限り、フランス人も一人として安全ではない」とも言っている。これは今日の日本についていうならば、「ヘイトスピーチやレイシズムは単に在日の問題のみならず、人類の普遍的人権を踏みにじるものであり、まずは、「日本人も一人として安全ではない」と言う認識に立つべきだ。」( 人権侵害救済法制定急げ…薛幸夫 )ということであって、自分たちの問題だと実感する。