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「それ、差別ですね」と告げて、場を仕切れる自分をつくる

  • kyotojiken-hate
  • 11月27日
  • 読了時間: 12分

更新日:12月1日

Ⅰ.管理者研修で話しきれなかったこと


去る11月7日、保育園と障がい者福祉施設を運営する団体の管理者研修で講義をさせていただきました。聴衆は、園長さんや施設長さん、主任クラスの方など、およそ15名の管理者の皆さんでした。テーマは、排外主義と差別の問題です。水俣の永野美智さんの事前了解を得て、冒頭ではこちらの ▶facebook投稿 を紹介しました。

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(さまざまな示唆に富んだ素晴らしい体験談ですので、みなさんもぜひご一読ください。)


気持ちのこもったご感想を送ってくださった参加者のみなさん、ありがとうございました。大変感謝しています。読んでいくうちに「ここを言い忘れた」「もう少し丁寧に話したかった」という部分が、いくつかはっきりしてきました。

そこで講義実施のご報告をかねて、言えていない内容を一つの文章としてまとめてみました。多くのみなさんに読んでもらいたいので公開します。




Ⅱ.「差別です」と言うことの意味


 1.場をしきる人の一言が、見られている

一番伝えたいのは、差別が起きたときに、場を仕切る立場の人が    「それは差別です。やめましょう」

と、はっきり言えるかどうか、これがとても大切である、ということです。明確に、即座に。毅然と客観的に。その場の責任者としての評価を示す必要があります。


施設管理者や職場の責任者、クラス担任やイベント主催者など、「場」を任されている人の一言は、その場にいる人全員からじっと見られている、と考えておきましょう。目の前で差別を受けた本人はもちろん、その場には、直接、言葉をかけられたマイノリティの人とは別に、その被害者と共通するマイノリティ属性を持ち、これまで何度もおなじような言葉で傷ついてきた人たちもいるかもしれません。そういう人たちが、周囲の人に決して気づかれないよう息をひそめることを強要される。そんな力学が働き始める。息を潜め、目線を合わさないようにしながらも、場をしきるあなたがどう反応するかを感じ取ろうとしている。そういう場、そういう瞬間で、どのような行動をとれるのか。管理責任者としてそこが問われます。


 2.「差別」と認定することが、どれだけの救いになるか

差別行為があったと被害者が感じている場面で、場をしきる人がきちんと「差別」という言葉を用いて評価する。これは、被害者にとって、とても大きな救いになります。「差別」という言葉を正しく理解して、正しい場面で使ってくれれば、それは     「この職場(教室)は、

     この被害の重大さを理解しています」

というメッセージになります。外形的にはささいな出来事であっても、そこに「差別」の要素が加わると、心への打撃は一気に大きくなります。これが、差別被害の特徴です。これを一言で表現することができます。


逆に、差別と評価しない、評価できない、あるいは空気に流されて口を濁してしまうと、被害者は自分の感覚を疑い始めるかもしれません。「自分の受けた精神的ショックは、考えすぎなのか」「自分が悪いのか、自分が弱いのか」このような自問自答のループに入り込みます。内心で「いや、そんなはずはない」「差別なのは明らか」という確信があるぶんだけ、葛藤は深くなります。自分の体感を、頭でねじふせて無視しようとすると、内側から崩れてしまうような無力感や空虚感に襲われます。そして最後には、「自分は大切にされていない」という感覚に、まっすぐつながっていきます。



 3.「言わない」ことが、強いメッセージ性を帯びる

    ――目につく加害と、見えにくい被害――


このように、「差別」という言葉を使って毅然と宣告し、場を仕切ること、これが被害者にとって大きな意味を持つのですが、ここには、ちょっとした難しさがあります。多くの場合、差別をする側の言動は目立ちます。一方で、マイノリティの側の差別被害の深刻さや広がりは、表に出にくいことが多いのです。加害に関わるマジョリティ(多数派)は、声が大きく、話す力もあり、説明も上手です。指摘を受け、差別ではない、という持論を雄弁に語ろうとするかもしれません。それに対して、被害者の側は、混乱の中でうまく言葉にできないことが多く、黙り込んでしまうことも少なくありません。子どもはもちろんです。言語化する術を、語彙を、社会構造に対する理解を、持ち合わせていないことのほうが通常です。


場をしきる人の関心が、加害者の行為の粗暴さ自己弁明の稚拙さにばかりに向かってしまうこともあるでしょう。しかし、本当に目を向けるべきなのは、見えにくい被害の側なのです。


みんなの頭に「いまのは差別ではないか」という感覚が共有されているようなときに、場をしきる人だけがあえて「差別」という言葉を口にしないとなると、この沈黙は、それ自体が強いメッセージになります。「ここでは、その程度のことは問題にされないのだ」と受け取られてしまえば、その場は、「自分が大切にされる場所」から遠ざかってしまいます。


職場や教室の安心安全な環境が守られるのか、はたまた壊れたままになるのか。その分かれ目は、しばしばこうした一瞬の判断と言葉にかかっています。


 4. 静かに、しかしはっきりと伝えるということ

「その行為は差別です。やめてください」と伝えるときの理想形は、なるべく感情を込めず、静かな口調で、明瞭に、そして毅然として宣告することだと考えています。状況が許すならば、少し微笑みをたたえながら指摘するくらいでもよいかもしれません。

なぜかというと、その場の判断者が強い感情を前面に出してしまうと、相手はそれを「自分への人格非難だ」と受け止めてしまうおそれがあるからです。また、まわりの人から見ても、「判断している人が感情に支配されていて、冷静さや客観性を失っているのではないか」と映ってしまう危険があります。


注意すべき点として、「差別かどうか」という評価そのものと、「この人をどこまで公然と非難するのが妥当か」「ペナルティを課すべきかどうか」という検討を、同じ土俵でごちゃ混ぜにしないことが挙げられます。行為者に差別的な意図があったのかどうかを、まず確認しなければと考え始めると、差別かどうかの認定と、その後の処分の妥当性の検討が一体化してしまい、足が止まりがちになります。

場をしきる人が判断をためらい、「うーん」と迷っている様子を見せてしまうと、その一瞬がきっかけになって、加害行為者の側も自己弁明や自己正当化を始めてしまいます。「差別するつもりなんか、ありませんよ! だって、〇〇××なんですよ!」と。こうなってくると、場を仕切る立場の人にとっては、ますます判断が難しく感じられてしまうことでしょう。


だからこそ、「これは差別です」と静かに、しかし即座に言う。はっきりと指摘して先手を打つ。その対応イメージを、イメージトレーニングなどをして自分のなかにしっかりと持っておく。意図の有無やペナルティの重さの問題は、別の段階としてあとから丁寧に考えて、これには時間をかければよい。この種の出来事が起こる前から、この二つを切り分けておくイメージをあらかじめ頭のなかに作って、備えておくことが重要だと思います。場を仕切る人、管理責任者、教室での教師とか、職場での上司とかの社会的責任ですね。



Ⅲ.マジョリティが学ぶ責任と、「行為としての差別」


 1.説明の負担のすべてを、マイノリティ被害者に背負わせない

マイノリティの被害者にとって、自分が苦しんでいるという事実は、動かしようのない現実です。ですので「これだけひどいのだから、マジョリティもすぐに分かるはずだ」と考えがちです。確かに、あとからお話を聞いてみれば、なぜそこに気づかなかったのか、と思うくらい当然のことであることが多い。

しかし、実際には、自戒をこめていうと、なかなか気付けない。マジョリティの側の鈍感さ基本的リテラシーの欠如は筋金入りで、マイノリティの人々の常識的な想像では追いつかないくらいなんです。私自身の経験に照らしてみても、マイノリティ支援に割と取り組んでいると自負していたのですが、てんでだめです。いまだに驚かされることの連続です。マイノリティの側が「さすがにこれくらいは知っているよね」と思っているようなことでも、現実には、直接の対話なしには届かない


だからといって、「被害を話す努力をしないマイノリティが悪い。」といった雰囲気にしてしまってはいけません。「どこから話をはじめていいのやら。。話したところでわかってもらえない、かえって面倒がられるし、我慢するしかないか」こんな風に感じている当事者に、マジョリティとの認識のギャップを埋める責任を負わせてはいけません。マイノリティの側では、すでに何世代にもわたる被害の蓄積があり、その中で力を失っている部分もあります。「語ろう」と過去に努力された方などは特に、無力感、徒労感に苛まれた経験も多く重ねています。責任はマジョリティの側にある。

ここで大切なのは、マジョリティの側が自ら学びに行くことなのです。差別という課題に、主体的に取り組もうとする多数派の人たちの出番です。「マイノリティの傷は当事者にしか語れないから、マジョリティにできることは限られているのかな」そんなふうに思う必要はありません。実際には、マジョリティにできることは多くあります。また、差別社会の現実を知ったマジョリティにしかできない橋渡しの役割も、たくさんあります。知識や経験はないので、現実に傷ついている被害者を前にして無知をさらして絶句させてしまったり、失礼な表現になってしまったり、失敗ばかりで申し訳なくもあるのです。それでも、なお大事なのは姿勢なのだと思うのです。勇気も必要ですね。とびこんでいって自分と、自分のマジョリティ性を自分の特権を、自らを批判にさらす勇気を育てたい。


 2.「差別」は心の問題ではなく、行動の評価である

ここで、一つとても大事なポイントがあります。それは、「差別」は内心の問題ではなく、行動に対する評価だということです。

(参考)人種差別撤廃条約 1条
(参考)人種差別撤廃条約 1条

差別については一般に「内心の問題」にされてしまいがちで、「あなたの中の差別心を直さないといけない」「差別したいなんて気持ちが起きない人間になってもらわないと困る」このようなアプローチになりがちです。しかし、実はここに、落とし穴があります。内心に軸足を置きすぎると、実は、加害行為者に逃げる余白を作ってしまうことにつながります。例えば「そんなつもりはなかった」「差別する意図はなかった」などと、内心の弁明に逃げ込まれてしまう余地を作ってしまうのです。


そうではありません。意図がなくても、差別行為は起こりえます。意図がなくても、差別被害は現実に生じます。これを知識として、場を仕切る人が備えておくべきだと思うのです。本当は、この種の攻撃意図がさして伴わない、あるいは軽微であったり、他の主目的と混在しているような場合にペナルティをどうするか、という難しい問題があるのですが、これを最初から意識しすぎてしまうのはよくありません。場を仕切る役割があるのに、瞬時に反応できなくなってしまいます。


言い換えると、「差別」の判定は、加害者に攻撃の意思があったかどうかと、切り離して判断できる。同じく、差別被害の聴き取りと理解は、実は、加害者の意図にふりまわわされることなく、切り離して進めていけばよい、というところにミソがあります。加害者の真実の内心などとは時として無関係に、差別被害がマイノリティ被害者の現実であり、真実たりうるということの意識を持つようにしましょう。


 3.被害を聴き、背景に関心を持つということ

そして、「差別」と公式に宣告した後、場をしきる人は何をすべきでしょうか。

まずは、被害者の真実に関心を持ち、虚心に話を聞きたいというその関心を表現すること。ここから始めるのがいいと思います。そうした聞く営みは、それをもって誰かを激しく非難する手段にしなくてもかまわないのです。「相互理解のため」などの立派な看板を掲げなくてもいいのです。まずシンプルに関心を持って意識を向ける。


具体的な場面の差別被害を聴いていくと、その被害の体感には、被害者の個人的な背景が大きく影響していることが見えてくるはずです。生活歴や家族状況、その場にいた経緯など、いろいろな要素が絡んでいます。もちろん、被害者のプライバシーを尊重し、話したくない気持ちを大切にすること、話したいタイミングを待つことなどは大前提ですが、もし条件が整うならば、その人の背景に丁寧に関心を向ける、そのこと自体が、「あなたのことを大切に思っています」と伝えるメッセージになります。


生活歴とさきほど書きましたが、このとき、聞き手の側で植民地支配の歴史認識、そして社会内に厳然と存在するマジョリティ特権の構造に対する基本的な理解を持っていることが、とても大切になってきます。とはいえ、現実には知らないことばかりなんですね。本当に申し訳ない展開になることも多いのですが、だけれども、少なくとも、今よりも知りたいという姿勢を持つ。そこから始めるしかないし、たぶん、それでよいんだと思います。


こうした姿勢は、安心・安全な職場環境や学習環境を整える上で、とても大きな意味を持ちます。差別被害からの回復、被害者が属するコミュニティとの関係修復、乱れた秩序への不安の軽減、社会への信頼の回復。そのどれにとっても、場をしきる人の姿勢表明は、一見ささやかなものに見えても、強い力を持ちます。



IV. おわりに


もう一度、出発点に戻ります。「その行為は差別です。やめてください」と、公の場ではっきりと言うこと。この一言が、その場にいる人たちの尊厳と安全を支えます。

それを言える自分になるためのマインドづくり、事前準備が必要で、その助けになるのが、

   差別は、内心ではなく行為の評価である。

という理解であり、正しい知識です。差別被害は、時として加害者の意図とは関係なく、確かに現実に存在します。場をしきる人が、その基本を押さえ、見えにくい被害の側に目を向け、被害の声に耳を傾ける。


まずは行為直後のささやかな一瞬の反応、そしてそこから続く関心の向け方の積み重ねで、職場や教室の空気が大きく変わると思うのです。そして、その蓄積が職場や教室の枠を超えて、共鳴しあいはじめれば、社会を確かに変えていく土台となっていくと思うのです。


講演では伝えきれなかった点を文章として残しておきたいと思いました。最後まで読んでくださって、ありがとうございます✨️

 
 

© 2015 by Shiki Tomimasu, Attorney-at-law, Kyoto

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