※ 2022.9.3注記 師岡弁護士、石橋記者は、日本の差別社会を解消すべく長年、献身的な取り組みをずっと継続してこれらてきた方々で、今回も、ウトロ地域や京都地裁に足繁く通ってくださり、この地域における差別被害の実態を全国的に発信するため、献身的な取り組みをしてくださっています。本稿は、新聞記事で切り取られた引用がぱっと目に入り、この切り取られたイメージが広まるのはよくないと思って、勢いで書きおろしたものです。師岡弁護士、石橋記者のお考えや取り組みを否定する論旨などではありませんし、むしろ、個人的には京都、徳島、ウトロ全ての事案で、多大な貢献をしてくださったことに対し感謝と敬服の念に堪えません。私の書き出しが雑だったがために、不愉快な思いをされた方やご心配された方もおられたご様子で、ここにお詫び申し上げます。
師岡康子弁護士の見解に勇気を得る。 〈判決に「差別」のひと言は入っていないが、動機が「特定の出自を持つ人々への『偏見』に基づく」と認定され、差別的動機という事件の本質的なところは認定されたといえる。民主主義社会では許されないとまで踏み込んでおり、もう一歩まできた〉。判決を手がかりにヘイトクライムのガイドライン策定、法規制、政府言論、ヘイトスピーチ罰則条例へとつなげていく。 出典リンク 石橋記者・FB投稿2022.8.31
冒頭、神奈川新聞・石橋記者が整理してくださった感想を引用した。
しかし、私は、この判決評価が広まってしまうことには賛同しない。
本件で、「差別的動機」が「事件の本質的なところ」と捉えるのはよくない。
こうして切り出して加害者のほうに関心を絞っていくと、差別被害が十分に理解されないまま埋もれていってしまう。差別動機の社会性、差別被害の社会性が、判決理由に十分に表現されていないことを、私たち支援者は問題視している。そのことを、厳しく指摘したい。裁判所が理解していなくても、日本市民は理解している、日本社会は理解しているよ、という状態をつくらないといけない。
人種差別撤廃条約をよりどころに!
現に生じた被害を目の前にして、今日の私たち(弁護士、支援者)が頼りにすべきは、まずもって、
人種差別撤廃条約
である。将来の立法への期待などではない。条約は、既に日本国内で法規範としての効力を有している。これを道具としていかに上手に使って、各方面の共感を得ることに努めるか、かつ、必要あらばしたたかに「アメ」と「ムチ」として用いながら、迅速な被害救済を実現するか、の勝負である。
なので、人種差別撤廃条約の規範(条文と言いかえてもいいのかな?)を、ちゃんと見ておきたい。条約は「偏見に基づく刑法犯罪」を独立した問題対象として切り取って、動機なき単なる刑法犯罪とは異なる取扱いで量刑加重せよ、と義務づけているわけではない。
ウトロ放火事件に一番近い規範としては条約6条 (条文、末尾にのっけてます。)ってことになると思うけれども、6条は、
「人種差別行為」に対して
「効果的な保護及び救済措置」を施せ
と言っているのである。そして、条約の定義するところの「人種差別」というのは内心を問題とするのではなく具体的な行為である。「目的・効果」において平等な権利享有を阻害する「区別・排除・制限・優先」行為を対象としている(条約1条の条文、これも末尾につけときました)。
内心ではなく「行為」を評価せよ!
行為というのは、動機の表明とか、行為の外形とか、生じた結果とか、すべてを包み込んだものとなる。だから、動機という内心部分のみを行為から分離独立させて「人種差別」の本質として捉えるわけではない。特定の出自を持つ人々への「偏見」に基づく動機があったとしても、そこが本質ではない。内心に着目するものではないってことです。「動機が表明されて行われた行為」であるとか、あるいは「動機があとから明らかになる行為」であるとか、何かしらの「行為」まであるのが出発点で、そして、その行為までをひっくるめて「人種差別」なのかどうかを見極める。例えば、内心で偏見を持っているだけでも、一切外に出さず何らの行為も起こさなければ、それは「人種差別」と位置づけて対応すべきものとはならない。
また、「目的・効果」と書いたけれども、条約の定義は「目的 又は 効果」である。「目的 及び 効果」ではない。だから、極端にいえば意図せず差別的「効果」のみを生じさせるような行為であっても、「人種差別」として取り扱うべきとなる。外形としては「区別・排除・制限・優先」行為になってしまったことについて、やらかした人が「悪気はなかった」「冗談で」「その人をほめようと思って」やったことであったとしても、受け手において平等な権利行使を阻害される人種差別の「効果」が生じれば、それは「人種差別」行為となる。被害が生じれば、国は「効果的な救済及び保護」を義務づけられる。内心を重視する考え方で誤解が広まってしまうと、よくある加害者の言い逃れの目くらましにやられてしまう危険がある。注意を払いたい。
国は、何を義務づけられるのか? 「効果的な救済及び保護」6条
「効果的な救済及び保護」(6条)という国の義務が、どんな「人種差別行為」に対しても刑罰とか重罰になるというわけではない。
多種多様な「人種差別行為」のなかで、問題となっている具体的な行為の特徴や被害実態に応じて最も「効果的」な救済や保護を、比例原則含め他の人権法理との調整という制約や、あるいは各国における法制度とか社会情勢の現実の事実上の制約も見据えたうえで検討していって、具体的な国の義務が決まってくる。このプロセスをふんで、ようやく、本件の刑事事件での裁判所に対する「しばり」のルールが現れてくる。
日本国においては、刑法違反を構成する犯罪に対して、裁判所は起訴された公訴事実のうち合理的な疑いを超えて立証された事実に、法律を適用して、法定刑の範囲で適正な量刑を定めることができる、ということになっている。この日本の裁判所の裁量権行使に対し、一定の「しばり」をかける存在として人種差別条約がある。比例原則その他の制約をふまえる必要はあって、でも、そのなかで「効果的」な「救済及び保護」になる方法を見いださればそれが「しばり」として機能する。日本の国会が通したさまざまな法律よりも、条約は優先して法的効力を持つのだから。
人種差別撤廃条約は、今現在、ウトロ判決時点でも、13年前の朝鮮第一初級学校威力業務妨害事件の判決当時でも、既に法的拘束力があった法規範。国会も承認しているわけだし、日本の選挙民の民主的な基盤を持つ現行法の一翼をなす(寺谷広司・平成 25年度重判解 292頁)。
条約が要請する適正な量刑とは?
それでは、人種差別撤廃条約が要請する適正な量刑とは、一般論としてはどう考えるべきか? そして、本件ウトロ放火行為にこれをあてはめるとどうなる?
ここで、私は、内心のほうに着目するのではなく、当該行為の客観的な作用、社会的な作用に着目する姿勢が大事と考えていて、人種差別撤廃条約はそうやって読むべきだと思う。差別行為の社会性を検討するというのが、条約のミソなんではないか、と(私見)。加害、被害で分析することができるはずで、
・ 差別動機の社会性
・ 差別被害の社会性
がどのように現れていたか、ということになる。
○ 動機の部分でいえば、
個人的な「悪感情」「嫌悪感等」「敵対感情等」ではない。これら感情が偏見に基づくかどうか、だけでもない。具体的行為を行う目的が、
対象のウトロ地域の人々や日本在住の在日朝鮮人に対して、 人として生きることを根本から否定し、 放火という恐怖により、地域から物理的に「排除」してしまえ!
とした意図があったこと、である。現に長年そこに居住してきた、いろんな思いを積み重ねて人とのつながりを蓄積させてコミュニティを作って生活してきた人々を「排除」してしまう、思うだけでなくて最も効果的な具体的な行為でやっちまおう、という、とんでもない発想。これは個人的な好き嫌いではないことがポイント。
社会に対して、被害者に対して、 被害者の属するマイノリティ集団に対して、害を及ぼしてしまえ、 それでいいんだ!と認識・認容した
ということ。これが動機の社会性だと解される(私見)。
内心といっても、こういう社会性を備え、そして外形的に表明され、そして本当の具体的行為が続いてくると、そこまで本気で考えていた内心ってことになります。空想ではないわけですね。めっちゃくちゃ悪質やん! と、実感がわいてきませんか?
○ 被害の部分でいえば、
被害者のお気に入りにしていた骨董品とか、思い出の記念品とかが失われた、という個人的な思い入れや喪失感ではない。差別被害の社会性とは、
当該行為により、自分たちが「区別・排除・制限・優先」され、 人として当然に行使できる権利が自分にはないんだ、 と思い込まされたり、 何とか勇気をふりしぼって当然のことを主張したら 拒絶や妨害にあう
というような効果が生じること。
本件では、その一番極端な現れといえて、
あなたたちが特定の人種や民族であるから、放火のような危険な行為にされされても当然だということを、具体的な行為をもってつきつけられ、だから、物理的に、この地、このふるさとに安心して住むことなんか許されない、ということを宣告されたも同然。あなただけじゃない、あなたの家族も幼い子どもも、全員、日本から出て行け、と。
宣告どころか実力行使。無理矢理、放火の恐怖・威圧感で脅しつけられている、ということ。
あなたちはは日本社会に歓迎される存在ではないということを、思い知らさせようとされた。恐怖という手段で。これが本件の差別被害の社会性だと思う(私見)
コインの表裏なら、被害を見よう。
先ほどは、条約の規範が法律に優先する、と書いてはみたものの、実は、上記の意味で生の事実として差別動機、差別被害の実態を把握ができるのだから、重い処罰というのはおのずと日本国の刑法の制度設計、憲法の考え方の制約にも極めて親和的なものになってくる。それは内心が悪質だからではなく、行為態様・結果もひっくるめて差別行為の悪質性がゆえである。
動機のような内心を重視しない考え方が刑法解釈として主流なわけですが、今回、書いてみて改めて、差別動機が伝達されることと、差別被害は一体で、コインの表裏であることがわかってくる。(伝達というのには、動機が自ら表明される場合と、あとから証拠で明らかにされる場合があると思う。)
ということは、あとは説明のしかただけで、こと人種差別に関していえば差別動機は、差別被害の事実認定のなかに包摂してしまったらよいのではないか。被害のなかに回収して評価しつくすことが可能なのではないか。そして、例えば本件のように、そもそも被告人も積極的に望んで表明して外形行為に及んでいる事案では責任非難を課しても何ら問題ない。こんなふうに、日本国の憲法上の制約のもとでも、実現容易な形で条約を解釈できるならば、それに超したことはない。
条約の考え方としては、今回の有本被告人の犯行の動機に、人種差別的な偏見があったとして、それ自体が「人種差別」として処罰の対象になるのではない。もしくは、刑法に抵触する「行為」がある場合に限定して、例外的取扱として、特別に、行為に作用した内心、動機、偏見を処罰することができる、ということでもない。
「人種差別」という「排除」行為として行われた当該放火行為がもたらした重大な差別被害、行為態様に照らし、公共の安全という放火罪の保護法益にも親和的な形で、重大な法益侵害が生じたから量刑上これは重く処罰されなくてはならない、ということになる。内心に着目した量刑加重と捉えるべきではない。これが私の結論。
みなさんはどのようにお考えになられますでしょうか。
以下は、参考条文です。
人種差別撤廃条約 1条
ついでに、条約第1条の定義規定 に改行を付したもの、掲載しておきます。
「1 この条約において、「人種差別」とは、
・人種、
・皮膚の色
・世系 又は
・民族的若しくは種族的出身に基づく
あらゆる
◆区別、◆排除、◆制限 又は ◆優先 であって、
○政治的
○経済的
○社会的
○文化的
○その他のあらゆる公的生活の分野における
平等の立場での ・人権 及び ・基本的自由 を
★認識し、★享有し 又は ★行使することを
-- 妨げ 又は 害する --
●目的 又は ●効果
を有するものをいう。」
改行なしの条文ですと、こうなります↓
第1条「1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。」
人種差別撤廃条約 6条
「第6条
締約国は、自国の管轄の下にあるすべての者に対し、
権限のある自国の裁判所及び他の国家機関を通じて、
この条約に反して人権及び基本的自由を侵害するあらゆる人種差別の行為に対する
◆ 効果的な 保護 及び 救済 措置を確保し、
並びに
その差別の結果として被ったあらゆる損害に対し、 ◆ 公正かつ適正な 賠償 又は 救済 を 当該裁判所に求める権利を確保する。 」