(朝鮮新報2014.8.11掲載)
■はじめに
先月の7月8日、大阪高等裁判所は、在特会らに対し控訴棄却の判決を言い渡しました。在特会側は、第一審判決以降、相変わらず「表現の自由」論に依拠してさまざまな主張を展開していましたが、大阪高裁は「いずれも」棄却するとのシンプルな判決主文でこれらを一蹴しました。
さらに、判決は、一審判決より一歩踏みこんで民族教育を行う利益にも言及しました。本件は、民族教育という次世代への民族性の承継という象徴的な場であったからこそレイシストの攻撃対象となり、関係者の衝撃も大きかった、という事案です。在日コリアンの民族的自尊心の育成・維持の営みが脅威にさらされる場面における日本司法の姿勢が問われました。ここには、①加害者側の人種差別性をどう考えるのか、②被害者側の民族教育実施権をどう保護するのか、という二つの民族的な要素があります。
これら加害・被害の両面は、民族的自尊心というキーワードのもとでコインの表裏の関係にあります。控訴審判決は、レイシズムを叩くという①の加害者側の悪質性の考慮に加えて、②の被害者側の事情、つまり被害法益の民族性についても重視しました。
■刑事有罪判決、及び、民事一審判決との比較
こうした控訴審の判断はある意味当然と思われることでしょう。しかし、2013年4月の刑事の京都地裁判決は、全く同じ事案で②被害法的の民族性はもちろんのこと、あからさまな①加害者の人種差別性ですら、一切言及していません。
刑事判決の民族性への無関心が、その後の日本におけるヘイト街宣の蔓延を導きました。検事の立証方針はもちろん、我々被害者の告訴代理人の働きかけのあり方も含め、さまざまな角度から再検証する必要を感じます。
そして、①加害者のレイシズムを叩く姿勢を明快に示した民事の一審判決でさえも、②の被害者の教育事業の民族性については注意深く漂白してしまいました。確かに、被害実態についても綿密に事実を拾い、これを基礎に高額賠償を命じた点は評価すべきです。しかし、一審判決は、侵害されたのは「学校法人としての教育業務」とし、「組織の混乱,平常業務の滞留,組織の平穏を保つため,あるいは混乱を鎮めるための時間と労力の発生といった…悪影響」といった観点のみで吟味されていました。「民族」教育事業であるがゆえの特別性には言及がなかったのです。
控訴審判決は、この点を改め、②被害法益の民族性を重視する姿勢を明快にしました。司法の被害者救済の役割を果たすためには、結論で高額賠償を命ずるだけでなく、判決理由でも本質を的確に射貫くことの重要性を、改めて実感させられました。
■②の被害法益の評価
~控訴審が保護法益と認めた「民族教育」の内容
控訴審は、学校法人京都朝鮮学園には「在日朝鮮人の民族教育を行う…人格的価値」があるとし、昭和28年認可以来の歴史と、学校数約120校・生徒数約12,000人の規模をもって展開する「民族教育…を実施する場として社会的評価」が形成されてきたのに、本件各侵害行為によってその「存在意義、適格性」等の評価が傷つけられ、さらに、「本件学校の教育環境」のみならず「我が国で在日朝鮮人の民族教育を行う社会環境」も損なわれたことを理由として高額賠償を命じました。
言い換えますと、これら「かぎかっこ」で括られた各要素については、日本の不法行為法を適用するうえで保護対象と位置づけられたわけです。そしてその保護は単なる建前でなく、侵害があれば積極的にペナルティ(賠償金)を課す対応をすべきこと、さらには、人種差別的動機による侵害の場合はより悪質とみなしペナルティを高額にすることが確認されました。
判決は、学校の「社会的評価」の指摘部分で、わざわざ「(甲152, 153, 191)」と付記し、書証とされた三つの文献を引用しています。甲152というのは「語られないものとしての朝鮮学校」(宋基燦著・岩波書店・2012年)、甲153は同志社大学・板垣ゼミの「朝鮮学校の社会学的研究」(未公刊)、甲191は「ルポ・京都朝鮮学校襲撃事件」(中村一成著・岩波書店・2014年)でした。これらの本では詳細に、民族教育の具体的実践の歴史が描かれています。この内容をもって、裁判所は判決の基礎とすべき事実と認め、保護対象とされる「民族教育」の内実としたことが表明されているといえます。
■①の加害者側の評価
控訴審は、①の加害者側の悪質性の評価の前提として、民法709条における間接適用という手法で人種差別撤廃条約の趣旨を取りこむ枠組みを採用しました。従来の判例法理に、より接合しやすく、上告審で破られにくい論理展開といえます。
間接適用の場合、その賠償額の認定にあたって、どの要素をどの程度重視したかの検討が重要です。この点、一審判決は、「賠償額は、人種差別行為に対する効果的な保護及び救済措置となるような額を定めなければならない」とし、刑事量刑との対比から推論をしていて、これら無形損害の認定根拠の記述から①の「加害者のレイシズムを叩く姿勢」を読み取ることができるのです。
控訴審判決では、一審判決の一般論部分におけるこうした特徴的な記述を削除しましたが、①の加害者のレイシズムの悪質性の評価、学校事業への支障の数々についての認定は維持しています。そのうえでさらに、「人種差別という不条理な行為によって被った精神的被害の程度は多大であった」といった認定も補充しており、①加害行為の人種差別性がゆえに被害者に与える特別の影響について考察を深めているといえます。
(レイシズムがゆえに民族教育実施権の根本に与えたという相乗効果についての分析は不十分と言わざるを得ませんが、)上述の「民族教育」の評価と並び、被害の民族性にも相当の重点を置くことで原審の高額賠償の結論を是認したものです。
なお、在特会が展開した「表現の自由」論を排斥するにあたり、「専ら公益目的」の判定では、実力行使を伴う威圧性の有無とともに、人種差別の動機の有無(ないし「発言の主眼」)を重要な考慮要素に位置づけ、一審判決の判断枠組みをそのまま維持しています。控訴審では、さらにもう一歩ふみこんで、在特会らの街宣は、「あえて相手方を挑発し、そこで予想される摩擦を利用して、差別的言動を一層エスカレートさせている」特徴があることを補充して記述している点も注目されます。
■三文献の引用が開く今後の展望
私は、判決文における上述の三文献の引用は、これから民族教育の重要性を日本社会に広く訴えていくにあたり、希望的な展望を開くものと感じました。高裁の裁判官たちは、民族教育にかなりの興味と関心をもってこの三冊を読みこんだのではないかと思うからです。
判決文としては、この引用がなくても十分説得的に成立していたと思います。他方で、判断の中核部分で引用するからには、その信用性を慎重に吟味する必要もあったはずでした。
実は、弁護団は控訴審を迎えるにあたり、何より一審判決を守ることに重点を置く戦略とし、一審段階で力を入れた民族教育の立証は補充的なものに留めることにしました。
高裁の裁判官たちは学校のことを何も知らない状態で審理に入ります。偏見も持っている可能性もある。そのようななか、民族教育の重要性を、歴史の重みのなかで理解させ共感を得るには、高裁の審理は短すぎると感じました。
しかし、ふたを開けてみれば、裁判官たちは自発的に上記の三冊を読み込み、そして、判決にあえて引用するほどの共感を持ってもらえた。おそらく、三冊のなかでも、この事件に特化して執筆された中村一成氏のルポが間に合ったことが大きかったと思います。この本が中核にあったことで、膨大で散らばってしまいがちな書証や証言調書が有機的に関連づけられ、裁判官の理解・共感の助けになったものと思われます。
もし、本当にそうだとすると、今後の運動展開のなかで、高裁の裁判官同様、これまで民族教育を知らなかった多くの人々からもまた共感と賛同を得ていく可能性が開けたように感じるのです。
中村氏の一冊に結晶し、凝縮されているのは、事件から4年半をかけて積み上げられてきた学校関係者一人一人の勇気ある決断・行動の数々です。
弁護団や支える会の活動を通してできた人のつながりや数々の思いの結晶が、ルポ書籍という一つの形となったこと、これは裁判を通して獲得された財産といえます。こうした蓄積が、これから多文化共生を日本社会に根づかせていく礎となってくれるのではないかと期待が高まります。
今回の控訴審判決を勝ち取った原動力は外でもない、先生方と父母のみなさんの「覚悟と決断」であったことを改めて実感させられるところであり、心よりその勇気と献身を称えたいと思います。