ヘイトスピーチ規制議論の一歩先へ
――①「クライム」対応の検討の必要性、②修復的アプローチの可能性――
はじめに
問いの立て方ひとつで、その後の思考が規定されることがある。
この間、「ヘイトスピーチ対策として、刑事規制の新設が必要ではないか」との問いが立てられて議論されてきた。しかし、この問いが対象とするヘイトスピーチの範囲(領域B)の狭さについて指摘されることは少ない。
(参考追記)参議院・法務委員会(4/5, 4/26)での、西田議員と法務大臣の質疑も刑事規制を念頭に置くと、どんどんと対象が狭くなっていくことを示していた。
京都朝鮮第一初級学校襲撃事件(以下「京都事件」という)の被害者弁護団として裁判対応にあたってきた。そこで聞いた被害者の心情は、在特会の言動の軽さとは対照的に、重厚な歴史的背景を体現した豊かなものであった。
しかし、刑事規制の議論のなかでは被害者の心情は「ヘイト、許さない!」の限度での単純な図式に押し込められがちである。
本稿は、規制論議のなかで欠落しがちな以下の問いかけを通して、被害者の声からの教訓について再検討するものである。
問ア「京都事件の被害者たちは、
ヘイト被害への法的対応として具体的に何を期待し、
どの程度実現したか」
問イ「私たち自身が、日々の差別の問題に向き合っていくうえで、
これらヘイト被害者の声から何を学び取るべきか」
犯罪被害者支援としてのヘイト「クライム」対策:問アに関連して
(1)京都事件の経験
刑事規制「新設」の是非に議論が集中するときに、まず抜け落ちるのがヘイト「クライム」対策の視点である。「新設」する立法でカバーすべき範囲が議論される場では、既に現行法で犯罪として対応可能な 「クライム」行為(領域A)は、関心対象から外れていく。法律の条文としては対処可能のはずなのに、警察による運用の問題がゆえに効果的な対応がとられない現状も見落とされてしまう。
京都事件はこの 「クライム」の領域に至っていた。現行法を活用して刑事訴追や高額の民事賠償による制裁が可能で、十分な被害救済を実現した成功例と思われている。しかし、京都事件の民事裁判が注目された背景には、本来あるべき刑事司法の機能不全があった。
(参考追記)参議院・法務委員会(4/5, 4/26)での、西田議員と河野国家公安委員長のこちらの質疑答弁①や質疑答弁②は、京都事件の警察対応が被害救済に十分であったかのような前提で話が進んでいるが、失当である。
上記アの問いで、京都事件の被害者が事件直後に求めたものは子どもの安心・安全の回復であり、迅速な犯人検挙である。しかし、本件における警察の対応は鈍かった。事件当日に臨場した警察官は、犯行現場で明白な威力業務妨害を止めず、告訴の後もネット動画等の証拠があるのに捜査は進まなかった。それどころか、被害者らを都市公園法違反の「被疑者」と取り扱う場面すらあった。
逮捕までの8ヶ月間、学父母たちは当番制で学校周辺の監視活動の負担と、重苦しい不安を強いられた。日本社会やメディアの無関心は、警察の怠慢と朝鮮学校の孤立を許す一因となった。
( 2) ヘイト「クライム」の視点から見える、歴史の連続性
警察のヘイト「クライム」対応の問題は京都事件に限るものではない。李信恵氏が著書「鶴橋安寧」で指摘し、徳島事件でも見られた。チマチョゴリ切り裂き事件(1994 年~)や、関東大震災当時の朝鮮人虐殺事件(1923 年)でも、警察対応は不十分で差別的と批判されてきた。
日本政府による朝鮮学校閉鎖(1948 年)をヘイト「クライム」と見るならば、校門にやって来た子どもたちを暴力的に制止し、今日の在特会の役割を担ったのは日本政府自身である。高校無償化適用排除や自治体の補助金廃止といった昨今の朝鮮学校施策も、差別扇動や民族教育排除の効果で共通している。京都事件で警察が動かなかったのは、官憲に連綿と続く差別政策に影響されたと考えるべきかもしれない。
京都事件の被害者らは「差別は当たり前」「警察は信用できない」と言い、当初は弁護団のアドバイスを聞き入れてくれなかった。京都事件は、日本社会に昔からある差別犯罪の延長であり、これを助長したのが長年の日本政府や警察の消極的な姿勢であると訴えていた。その後の警察対応をみれば、差別社会を生き抜いてきた在日朝鮮人の直感が正しかったといわざるをえない。
京都事件から6年半が経過するが、有効なヘイト「クライム」対策の議論は始まってすらいない。日本政府自身が差別を体現してきた歴史の検証からはじめ、京都事件などの具体的事件の経過を振り返る必要がある(※ 関連記事)。そのうえで、捜査ガイドラインの策定、警察内部での捜査官・職員研修、ヘイト被害の特徴をふまえた被害者支援、裁判手続や量刑のあり方、刑務所内における処遇や保護観察のあり方などが検討されるべきである。
刑事系の法学者による議論も、活性化させて、諸外国の状況等について研究を深めていただきたい。
修復的正義の視点:問イに関連して
(1)「非難とペナルティ」の図式の限界
冒頭の問イに関して、被害者の声からどのような示唆があるだろうか。ヘイトスピーチが蔓延する日本社会で、子どもたちが大人の差別的言動を真似する時代である。職場、学校、地域コミュニティや家庭内で、数多くの差別事象が起きているはずだが、その大半は「新設」規制法が対象とする悪質類型(領域B)には至らない(領域C)。
刑事規制とは、刑罰に値する悪質な行為を選別する議論で、かかる悪質類型に対象を絞るからこそ「ヘイトスピーチ、許さない!」のメッセージにも沿う。しかし、この非難とペナルティによる対応モデルのみでは、私たちが日々遭遇する多様なヘイトスピーチにどう向き合うべきか、十分な行動指針を提供しない。
例えば、小学校の教室で、差別・排除の意図はなく無知と未熟さで発せられたヘイトスピーチに対し、一律にペナルティを課す対応が、被害児童の心の傷を和らげる助けになるとは限らない。悪意のない加害児童にとって自らに課されるペナルティの意味は理解しづらいし、不満のはけ口として、より陰湿な差別で被害児童への攻撃を続けるかもしれない。また、ペナルティを課した後には、より困難な問いが待っている。加害児童と被害児童が同じ教室で過ごしていくにあたり、どこまでの関係修復が可能なのか、その修復の試みでは誰をどのように参加させ何を伝えていくのか。
こうした問いを意識しながら、改めて京都事件の被害者の声を聞いてみると、また違った側面が現れる。
(2)日常の回復のために、加害者の謝罪を求める被害者の心情
被害者の心情のうち、ヘイト加害者の改心・謝罪を期待する声は、「ヘイト許さない!」という非難とペナルティの図式から外れてしまうからか、特徴的でありながら見落とされがちでもある。しかし、ヘイト被害者らの閉塞感を知るうえでも、あるいは「非難とペナルティ」対応の次の展望を考えるうえでも重要な示唆がある。
被害者の目には、ヘイト街宣の加害者が日本社会の象徴として映る。彼らの差別的言辞はマジョリティに属する人々の本音の代弁である。日本のあらゆる人々が朝鮮人である自分や家族や民族を見下し、敵視し、危害を加えてもよいと考えているように感じる。このため、マジョリティと接する日常のあらゆる場面において恐怖や閉塞感を感じるようになる。
この疑心暗鬼を解消する直截な方法は、ヘイト加害者自身の改悛・謝罪である。日本社会への信頼回復のために、知人のなぐさめや判決理由も助けにはなるだろう。しかし、加害者が自分たちの心情を理解し差別街宣の誤りを認めることこそが最大の安心と受け止められる。どんなに非現実的と説明されても、法廷で期待を裏切られ続けても、これを切に願わざるを得ない心情があるようで、弁護団の私には意外であった。そして、差別行為従事者との修復を求める心情は、諸外国の研究のみならず、鳥取県人権救済条例検討委員会(2007年)の調査結果や、直近では朝鮮学校アンケート調査(2015 年)などで共通して現れていることを、後に知った。
単純な図式に押し込めることなく、被害体験を謙虚に聞き取る努力を重ねていくと、植民地支配の歴史や過去の差別体験が背景にあり (歴史性)、マジョリティの想像をはるかに上回る心理的ダメージが生じること(非対称)など、ヘイト被害の特徴が浮かび上がる。
なかでも、心理的ダメージが発言者の意図とは関係なく生じうることについては、修復的実践のうえでも注意が必要である。
うっかり発せられたコメントでも、それが日本社会のマジョリティの差別意識の象徴として受け止められる以上、ダメージは蓄積する。この特徴を理解しないと被害を矮小化しかねない。担任教師に「○○君に悪気はなかったのよ」と諭される被害児童は、自分の気持ちは誰にも理解されないと感じ、社会一般に対する不信感を強めるだろう。
結 語
日本社会の無策・無関心は排外主義の蔓延を許し、ヘイト被害者の声は、その犠牲のもとで集められた貴重な訴えである。痛みを出発点にしながらも、失われた信頼を修復し、さらに強靭な共生社会を生み出す知恵を伝えているように思う。
謙虚に耳を傾ける姿勢を忘れないようにしたい。