在特会に代表されるヘイトスピーチ街宣には、一つの特徴が見られる。
それは、地域に属さず利害はないはずの外部の人間たちが、突如、首をつっこんできて大騒ぎをすること。その結果、地域社会における長年の営みを破壊することである。
4月5日の国会審議(参議院法務委員会)で質問に立った複数の与党議員が、共通してこの特徴を指摘していたことを興味深く読んだ。
西田議員(自民党) 動画リンク(国会審議)
「…、これは一つ、そう言いながら、安心というか、思ったのは、地区の方々がやっているんじゃないんですね。例えば、川崎の桜本地区の方々が自分たちの一緒に住んでいる方々を、在日の方々に差別発言をして出ていけとか言っているわけじゃなくて、地区の中では非常に融和されて皆さん仲よくされているわけなんですよ。ところが、あれ、やってくるのは全く関係ない人間が、どこから来るのか分からないけれども、全国から集まってくるのか、何かそういう攻撃的な発言をしにやってくるんですね。 ということは、一つ、地区の中ではかなり平穏な生活を皆さん送っていただいていると思うんです。それはやっぱり行政も努力されてきただろうし、何よりも地区の住民の方々の信頼関係が長い間築かれてきた。大事なことですよね。しかし、もう片っ方でそういう暴力的な言動をする人間がいるのも事実なんですね。しかし、それがいわゆる表現の自由なんていうことを隠れみのにして結局はしたい放題しているというのは、やっぱりこれかなりおかしいですよね。」
矢倉議員(公明党) 動画リンク(国会審議)
「私も桜本地区お伺いをして改めてびっくりしたんですが、本当に日常生活のあるど真ん中のところのすぐ近くにデモが行われたんだなということ、訪問させていただいたふれあい館、公営で日本人と外国人が触れ合う場として初めて設立された、非常に崇高な理念の下につくられた場所でありますが、…自分たちのふだんの平穏な生活というのがいかにじゅうりんされているのか、本当に悔しかったであろうなということを改めて感じたところであります。しかも、やってくる人がそこに住んでいる人ではなくて、外部からやってきてがなり立てる、大きな声を立ててがなり立てて、出ていけ出ていけ出ていけと、こう言っていくというところであります。」
真実は、地域における地道な取り組み、長年の試行錯誤を経て培われた関係のなかにこそある。この参議院・法務委員会のメンバーは、桜本という象徴的な場所に実際に足を運んで多文化共生の実践を自分自身の肌身で体感した。地域社会の実践や試行錯誤で醸成されてきた多文化共生の実践は、国会議員に強い印象を与えたのだと思う。
えてして、ヘイトスピーチの議論は、➀加害行為者と➁被害者間の二極構造か、よくても➂国レベルの行政立法や日本社会の責任を加えた3極構造のなかで捉えられがちなである。ここに④「地域社会vs外部からの横槍」という4つ目の観察軸を取り込むことの重要性は、もっと注目されてよい。
この点、地域の問題に無関係なはずの外部者が、声高に在日は排除すべきだ、などと怒鳴り込んでくる不可解な構造は、京都事件にも顕著に見られた。
この特徴は、判決において、在特会の真の目的の認定(「専ら公益を図る目的」(刑法230条の2参照)に欠けると判断)において影響を与えたものと思われる。
在特会は、表向きの目的を、
「在日韓国人・朝鮮人(以下、在日)問題を広く一般に提起し,在日を特権的に扱う,いわゆる在日特権を無くすことを目的とする団体である」(会則1条)
と掲げている。確かに、純粋にこの目的に徹して、社会的相当性を有する方法において街宣活動をするのであれば、表現の自由の保護の対象となりうるところだ。
しかし、裁判所はこうした表向きの装いに惑わされることなく、証拠に照らし、在特会の真の目的を次のように認定した。
(被告らは)かねてから,在日朝鮮人が過去に日本社会に害悪をもたらし,現在も日本社会に害悪をもたらす存在であるとの認識を持ち,在日朝鮮人を嫌悪し,在日朝鮮人を日本人より劣位に置くべきである,あるいは,在日朝鮮人など日本社会からいなくなればよいと考えていたこと,つまり,在日朝鮮人に対する差別意識を有していたものと認められる。
イ また,前記認定の事実経過に照らせば,上記被告らは,自分たちの考えを表明するための示威活動を行うとともに,自分たちの考えを多数の日本人に訴えかけ,共感を得るため,自分たちの言動を撮影した映像を公開するという活動もしていたが,本件学校が校庭代わりに本件公園を違法に占拠している事実を把握するや,その不法占拠を口実にして本件学校に攻撃的言動を加え,その刺激的な映像を公開すれば,自分たちの活動が広く世に知れ渡ることになり,多くの人々の共感を得られるはずだと考え,示威活動①に及んだものと認められる。
上記被告らは,示威活動①において,本件公園の違法な占用状態を(行政を通じてではなく,いわば私人による自力救済として)解消する意図で活動したかのように装っている。しかし,それが表面的な装いにすぎないことは,その映像自体から容易にうかがい知れるし,被告Aが,京都市の担当者から平成22年1月か2月にはサッカーゴール等の物件が自発的に撤去される予定であると聞いていたのに,「朝鮮人を糾弾する格好のネタを見つけた」と考え,自分たちの活動を世間に訴える目的で示威活動①を敢行したことからも明らかである。
ウ 示威活動①を発端としてなされた本件活動が,全体として在日朝鮮人に対する差別意識を世間に訴える意図の下に行われたことは,前記認定の事実経過に照らして,明らかである。
仮に、不法占拠という問題があったとすれば、それは、あくまで地域社会で問題提起され解決されるべき事柄である。京都朝鮮初級学校の周辺地域は、日本人と朝鮮人それから京都市の行政が長年の友好的な交流を重ねながら共生を実現していた。学校の公園使用を問題視する声は聞かれなかった。そこに突如として外部者が現れ暴力的な行為と誹謗中傷の限りをつくす。このような構造があれば、いかに巧妙に「抗議」を装っていても、活動の真の目的は何か、冷静に見極めなくてはならない。裁判所は、こうした判断過程を経た結論として、真の目的は差別にある、と躊躇なく認定したのであった。
(参考)徳島事件においても、控訴審の高松裁判所は、真の目的の吟味を重視している。表向きの装いに惑わされたのが原審・徳島地裁判決であった(「本件抗議活動は…攻撃の主たる対象は原告組合及び原告元書記長であり、その内容も、原告組合が本件支援を行ったことに対する批判、原告組合が政治活動を行っていることに対する批判、原告組合ないし日教組の考え方に対する批判、木立用船当局や朝鮮学校に対する批判等を内容とするもの」などと認定)。
それでは、この地域社会vs.外野からの横槍、という観察軸において、
3月29日文科省通知はどのように評価すべきだろうか。
実は、この3.29通知は、
正に「地域の問題に、外部者が口出しをする」という構造を体現している。
この点、通知の文章だけ見ると
「補助金の趣旨・目的に沿った適正かつ透明性のある執行の確保及び補助金の趣旨・目的に関する住民への情報提供の適切な実施をお願いします。」
とある。これだけ読むと、その目的は、あたかも地方財政支出の適正化の確保という、もっともらしい公益目的のように映るかもしれない。
しかし、少し考えてみると、すぐにそのおかしさに気づく。
問題があるならば、地方自治体の住民や議員から問題提起され、地域内で解決されるのが本筋だ。なぜ、長年、地域住民が民主的な意思決定のもとに実践してきた地域密着・草の根の取り組みに対して唐突に中央政府が口出しをしてくるのか。西田議員の自民党、矢倉議員の公明党が構成する与党安倍内閣が発出した通知でありながら、両議員が指摘したのと同じ構造、京都事件で見られたものと同じ構造だ。
馳文科大臣は、記者会見で「補助金の交付の権限は地方自治体にあります。私から減額とか、自粛とか、停止とか、そのようなことを指示する内容ではありません。」と苦しい弁明を繰り返した。しかし、この程度の軽い「口出し」のレベルでも、文科省通知の影響力は絶大だ。本来全く問題のなかったはずの費用支出について中央政府が疑念を表明すれば、事実上、各地方自治体が支出継続に不必要なほど慎重となる効果を生む。そのインパクトをもろに受けるのは、学生たちの日常の生活である。在特会の賛同者たちがお墨付きを得て勢いづく結果、在日マイノリティの日々の生活が脅かされるという効果すら生む。「上からのヘイトスピーチ」の典型例だ。
文科省は、補助金という財政支出の長年の取り扱いに何かしら疑義を抱くべき根拠があったというのだろうか。それも、生徒らへの重大な影響をもやむを得ないような、あえて公式に文科省通知による注意喚起を必要とするほどの確たる根拠が。一般の人々は中央政府が疑念を示せば、それを真に受けてしまうだろう。差別偏見が広がることになる。根拠を示せないならば、在特会と同じレベルの単なる差別扇動と批判されてもやむをえないだろう。地方自治の制度的保障に関連して憲法違反という由々しき問題も生じる。
(徳島事件の高松高裁判決では、在特会は「充分な事実関係の調査確認もしないまま、未必的ともいうべき誤解の下に」「事実確認を行えば事実無根であることが容易に明らかであるにも関わらず」誹謗中傷に及んだ、と認定された。今回の文科省3.29通知も、さしたる根拠もないのに強引に通知にふみきっている点において、在特会と同レベルなのである。)
政府や政治家などからの「上からのヘイトスピーチ」の場合は、在特会よりも巧妙に表面上の装いを準備してくるはずだ。だまされる人々が大半であろう。
このため、市民の側で、京都地裁や高松高裁をお手本に、差別政権の真の意図を暴くスキルを磨いておかねばならない。さしあたり①本質を見抜く眼力が必要なのはいうまでもないが、裁判所や一般の人々がだまされそうになっているときに客観的な説明を提供するために②条約、CERD委員会の勧告、日本の裁判例に照らした判断要素、判断基準などの知識を頭に入れておくことが重要だと思う。
さしあたっては条約の「目的又は効果」という基準である。「目的及び効果」ではないところがミソである。
また、人種差別撤廃条約のGeneral Comment 35 のなかのpara.15「文脈(context)」の概念の整理と、実例におけるCERD委員会の判断などは注目しておきたい。
↓以下、は該当箇所を切貼したもの
(参考)
15. 第4条は特定の形態の行為を法律により処罰されうる犯罪であると宣言することを要求しているが、その条項は犯罪行為とされる行為の形態に関する条件の詳細な指針は提供していない。法律により処罰されうる流布や扇動の条件として、委員会は以下の文脈的要素が考慮されるべきであると考える。
スピーチの内容と形態:
スピーチが挑発的かつ直接的か、どのような形態でスピーチが作られ広められ、どのような様式で発せられたか。
経済的、社会的および政治的風潮:
先住民族を含む種族的またはその他の集団に対する差別の傾向を含むスピーチが行われ流布された時に、一般的であった経済的、社会的および政治的風潮。ある文脈において無害または中立である言説であっても、他の文脈では危険な意味をもつおそれがある。委員会は、ジェノサイドに関する指標において、人種主義的ヘイトスピーチの意味および潜在的効果を評価する際に地域性が関連することを強調した16。
発言者の立場または地位:
社会における発言者の立場または地位およびスピーチが向けられた聴衆。委員会は、本条約が保護する集団に対して否定的な風潮をつくりだす政治家および他の世論形成者の役割に常に注意を喚起しており、そのような人や団体に異文化間理解と調和の促進に向けた積極的アプローチをとるよう促してきた。委員会は、政治問題における言論の自由の特段の重要性を認めるが、その行使に特段の義務と責任が伴うことも認識している。
スピーチの範囲:
たとえば、聴衆の性質や伝達の手段。すなわち、スピーチが主要メディアを通して伝えられているのかインターネットを通して伝えられているのか、そして、特に発言の反復が種族的および人種的集団に対する敵意を生じさせる意図的な戦略の存在を示唆する場合、コミュニケーションの頻度および範囲。
スピーチの目的:
個人や集団の人権を保護または擁護するスピーチは刑事罰またはその他の処罰の対象とされるべきでない17。