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京都地裁判決を受けて


 振り返ってみると、オモニのみなさんの言葉の力に衝きうごかされ、弁護士も支援者も、 走りながら考えてきた、という裁判活動でした。  子どもさんを通わせる民族教育への想いとか、ここ京都朝鮮第一初級学校を舞台に 積み重ねられてきた在日の歴史の重みと豊かさのようなもの、そういうものを何とかして 裁判所に伝えたい。この学校と子どもたちと大人達のコミュニティは、守るべき大切な宝物なんですよ! と、広く日本のみなさんにも知ってほしい。 そんな思いでこの三年間、京都地裁の審理に取り組み、今回の京都地裁判決まで 全速力で走り抜けた、といった印象です。  私には、十年ほど前、多文化探検隊、ワンデイ・ホームステイなどのイベントを通して、 異なる文化がぶつかってお互いをきらめかせあうような、そんな現場に居合わせて 感動した体験があります。一般にはあまり意識はされていませんが、日本社会が自然と 持っていた多種多様な文化、それらがぶつかり混じり合って生まれる厚みと包容力に はじめて気づかされた気がしました。第一朝鮮初級学校の学芸会にはじめて招待して いただいたときにも、世代を超えて、家族を越えて、子ども達の文化の育みをやさしく 見守り、同時に元気をもらっている、将来に夢を託す、そんな光景の美しさには度肝を 抜かれ、心から感動しました。  こうした学びを生かして貢献できるのではないか、今こそ恩返ししたい、という気持ちも あって、弁護団の一員となったわけですけれども、今にして考えると、私のそれまでの 「学び」なんて吹けば飛ぶような軽いものでした。裁判の準備をとおして、第一初級の みなさんからは、学ばせていただくこと、驚かされることの連続でした。  教員・保護者の方々から、かなり中身の濃い聴きとりをしてきた自負はあります。 懇親会なども開いてくださいました。裁判方針を決める際には、いろんな方々と 本音でぶつかり合いました。そんなふうにして事件から四年近く、とても濃いおつきあいを してきたはずなのに、それでも、いまだに、お話を聞く度にまた別の深い世界が見えてくる。 判決後のこの何日間でさえも、学校のみなさんや支援者の方々の感想をお聞きしていて、 はっとさせられることが何回もありました。この裁判の取り組みをとおして、自分自身の 社会を見る眼、感受性が何倍も豊かになっていることを実感します。 「なんで、そんな当たり前のこと、わからへんの~?」「そんなことも知らなかったの?」と 言われてしまいそうな基本的なところから、根気よく説明をしてくださった当事者の方々。 そして、言葉ではなく、学校のイベントや授業参観など、ありのままの姿を見せて伝えようと したくださった学校関係者の方々。こうしたやりとりのなかで、ひしひしと我々弁護団への期待、 ある種の悲壮感、裁判に懸ける思いのようなものを感じました。  朝鮮学校での民族教育の実践や多文化共生の取り組み、それは、きれいごとだけではありません。 ここには日本政府による弾圧の悲しい歴史があり、差別・偏見との闘いがありました。 学校周辺の地域の人々とも、行政ともぶつかりあったりわかりあったりしながら やりくりしてきた経緯もありました。一世からの悲しい歴史という負の側面も背負い、 大小さまざま悲喜こもごものドラマや事件が無数にあり、そこに子どもをめぐる大人たちの いろんな思いがあって、困難を乗り越えてきた。この激しい経過のなかでたたき上げられてきた、 確かな多文化共生の実践があります。  この学校(おそらく全国の朝鮮学校のそれぞれにも)とその周りの人々のつながりのなかには、 机上の空論ではない、言葉では伝えきれない何か、たぶん叡智や知恵とか呼ばれるものなんでしょう、 そんな何かが確かに存在しています。これが、今日、私を感動させ、勇気づける源泉となっているように思います。 学校を舞台に、強い力と知恵が生みだされ、一世から二世、三世と承継され、進化し続けているのです。  今日、インターネットやグローバル企業、競争社会の台頭といった社会変化を受け、 格差と分断の危険な流れが生まれていて、これに対峙していく知恵を結集することが求められている。 世界中の賢い人たちが、ヘイトスピーチの蔓延にどう対処したらよいのか、頭を悩ませています。 私は、朝鮮学校の実践に、一つの答えがあるのではないか、他者を排除することなどないような 優しく強靱な多文化共生社会を実現する大きなヒントがあるのではないか、そんな風に感じています。 2013.10.9 弁護士 冨増四季


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