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再考:  ヘイト「クライム」の定義と、関連論点の整理


はじめに

先日来、国連CERD委員会の議論に触発されてヘイト「クライム」研究の空白についてブログにまとめてきた(CERD委員会での日本政府のごまかし)。もっとも、ブログ公開後、もう一度、これらの定義について出典をあたって確認してみたところ、私自身の理解も正確ではなかったようである。日本においてヘイト「クライム」研究に空白がある、という結論そのものに影響するものではないものの、ヘイト「スピーチ」概念の守備範囲について混乱を生みかねないので、改めて整理を試みる。 私が、日本においてヘイト「クライム」研究が空白となってしまっている問題性を、研究者のみなさんに訴えかけたかった理由は、

●京都朝鮮学校威力業務妨害事件、奈良水平社博物館事件等、日本におけるヘイト・スピーチ事件の代表的な例として挙げられる事件は、現行法違反の明らかな犯罪行為であるにも関わらず、検知されなかったり、告訴等で検知されても検挙(捜査、訴追)の遅さがあり、量刑ふ当が生じているなど、刑事司法の機能不全があること

●ヘイト「クライム」には強いメッセージ性があり、こうした「クライム」に対して迅速な取締りが遂行されず放置されるような事態になれば、ヘイトのメッセージ性に影響を受けて「スピーチ」被害もまた広がることになる。ヘイト暴力ピラミッドの裾野を広げ、さらなる「クライム」被害拡大をも、もたらす。現行法上「クライム」に至らないヘイト「スピーチ」がやりたい放題となるのはもちろん問題であるが、「クライム」が社会的に黙認されることの影響も甚大であること(こちらのブログ記事参照)。

●ヘイト・スピーチを刑事規制する新規立法の検討(その必要性、実効性の吟味、憲法上の問題点の整理)に先立って、現行法の限界とその要因を見定める必要があること

といったところにある。こうした一連の検討にあたっては、まずは端的に「クライム」の守備範囲を整理すべきである(「スピーチ」と「クライム」の守備範囲の関係、重なりあいの整理はその次の検討でよい)。日本の刑事司法に潜む差別性を明らかにするためにも「クライム」を対象とした研究も進めて整理し、現行法上の「クライム」行為の検知、捜査、訴追、裁判手続、量刑判断の各場面において、あるべき対応と限界が整理される必要があるが、日本では「スピーチ」の議論ばかりが先行して、この「クライム」研究に空白が生じている。実務家の弁護士の整理には限界があるので、研究者のみなさんのお力をぜひともお借りしたい。

イギリス警察の定義

いくつか見たなかでは、イギリス及びウェールズの警察が用いている定義がすっきりとしていてわかりやすい。後述のNathan Hall氏(前田教授も著作で引用)もこの定義を重要な一つとして紹介し、また、アメリカで一般的に定着している定義ともほぼ重なるように思う(参考 FBIの整理, UC Berkeley性平等センターの整理 )。そこで、今回はACPOの定義を参照しながら整理をしてみたい。この整理は、ACPO(Association of Chief Police Officers = イギリス全国の警察本部長、副本部長クラスによって構成される)が警察業務の運用にあたって用いている定義である。   注:読みやすさの観点から若干の意訳を加えた表現としているので必要に応じて原典(リンク先はケント警察による孫引き)をあたっていただきたい。 まず、ヘイト「クライム」を定義づける前提として、「ヘイト事象(hate incident)」という概念を設けて

ヘイト事象(hate incident)=   (障害、人種、宗教、性的志向、トランスジェンダーなど一定の属性に対する)   偏見や憎悪に基づいて動機付けされた行為であると、   被害者や第三者によって認知・理解される全ての出来事

と定義し、そのうえで、ヘイト「クライム」とは

ヘイトクライム(hate crime) =   「ヘイト事象(hate incident)」のうち、(現行法上の)犯罪を構成する行為

と整理する。Hall氏も著書Hate Crime(2nd ed. Willan Publishing, 2013)で述べているが、この定義の構成要素のうち、意見が分かれ議論の的となっているのは、何をもってヘイト事象と捉えるか、どの程度ヘイト性が行為を動機づければヘイトクライムとして特別な対応が要請されるか等といった点である。他方で、「犯罪を構成する行為」かどうかの要素については従来の議論の枠内に収まっているとされ、平たく言えば、その時点における「現行法違反の犯罪」かどうか、で単純に理解しておいたらよいだろう。

定義による整理の目的を意識すべき

ACPOの定義は、目的があって規定されたものである。すなわち、警察機関であるACPOの業務に必要な範囲で、すなわち現行法に違反する犯罪行為の検知、捜査、訴追、処罰の職務を遂行し、または、その成果と課題を検証していくのに有益となるように整理されている。

この点、ヘイト事象があれば、広く市民はこれを報告するように奨励されており(Dorset警察の報告用サイトは興味深い)、ヘイト犯罪の検知もれが生じないようにまず広く「事象incident」のレベルで網をかける。そして、そのなかから犯罪に至る行為をふるいにかけ、ヘイトクライムともなれば、さらなる捜査・訴追・刑事裁判・処罰を進めていく。 こうした目的からいえば当たり前のこととなるが、ACPOの定義の整理においては、ヘイト「スピーチ」かどうかの線引きや、「スピーチ」とヘイト事象・「クライム」との守備範囲の関係や重なり合いなどは特段、意識されていない。

今、日本において問題視されているヘイト「スピーチ」の大半は、おそらくヘイト事象に含まれることになるが、そのなかで現行法違反となる「クライム」も、そうでないものもあるため、「スピーチ」は両者にまたがっているということになる。もう一つ言うと、ヘイト「クライム」は、人種差別撤廃条約によって国の対応が義務づけられる「差別扇動行為」の守備範囲とも、その国々の現行法の現状によって重なったり重ならなかったりするわけで、少し次元が違う概念として整理しておく必要がある。

このように、元来、用語の定義というものは、目的を設定したうえで、その目的に資するように概念の整理を行うためにするもので、これを紹介する際に、どのような経過で生まれてきた定義なのか確認することが有益である。前田氏、師岡氏等をはじめとする日本のヘイト研究においては、諸外国や国際機関における各種の定義や条文上の規定を、個別の目的の違いを意識せずに一緒くたに紹介しようとしているがために、混乱を来しているきらいがある。

前田朗教授が「…日本ではヘイトクライムが犯罪とされていない。」(前田・34頁)と述べたり、「ヘイトクライムを非難」との表題のもと条約が対象とする差別扇動行為等を紹介したりするのは(同・99頁)、上記のACPOに代表される欧米における一般的な"hate crime"の用法とは異なるものとなっている。ACPOの定義でいくならば、現行法上、当該国において犯罪とされていないならヘイト「クライム」とは呼ばないので、前田教授の論述はその用法において誤りがある、ということになる。

また、条約が対応を求める差別扇動行為は、国によって、既に犯罪とする現行法がある国とない国がある。従って、ACPOの定義に照らせば、これが既に立法されている国においてはヘイト「クライム」となり、立法されていない国においてはまだヘイト「クライム」とは呼べないことになる。

もっとも、何をもって「犯罪」と考えるか、については、法律実務を行うにあたっての定義づけのみならず、現行法規からは独立して犯罪に匹敵するほど悪質な行為カテゴリーを規定する社会学的な定義づけが適する場面もあるので、一概に誤りともいえず、その論者の議論や問題提起の目的にいちばん適した定義付けを選択すればよいことになる。

意見交換をする場合には、それぞれの話者が、どのような意味合いでの定義を前提に意見を述べているのか、確認の必要はある。 こうした整理ができていれば、先日の国連のユエン委員の質問に見られた混乱(「ヘイト・スピーチについて、京都朝鮮学校事件で地裁でも高裁でも1200万円の賠償命令が出ている。吊誉毀搊を認定し、ふ法行為とした。刑事の側面、起訴されたとの話も聞いたが、もう少し詳しく知りたい。刑法の罰則が幅広いようだが、しかし、ヘイト・スピーチが起訴相当の罪にあたる場合があるという。具体的にどういう罪が法律に定められているのか。実際に発動されて、判決で認定されたのか。刑法のどのような条項か。差別は日本刑法で罰せられないのではないか。」)や、これに続く日本政府答弁でのごまかし(詳しくはこちら)を許すこともなかったはずである。

師岡弁護士コメント「警察は告訴状をなかなか受け取らず、逮捕は8カ月後だった。日本の学校で同じことがあれば現行犯逮捕。勧告は、現行法でできることすらやっていない運用を改めるべき」との問題提起は、「スピーチ」規制の是非の議論とは別途に、ヘイト「クライム」研究によりカバーされるべき事項といえる。

スピーチ規制の論点整理:異なる4つの検討レベル

上述のような「クライム」類型の整理を経たうえで、ようやく現行法の適用では限界がある部分が浮き彫りになってくる。そして、現行法の規制では対処できない一定のヘイトスピーチ類型に対しては、規制の是非を議論することになろう。この場面においてもまた、論点整理が曖昧がために議論が混乱している現状があり、かねてから議論の枠組みの整理をする必要がある、と危機感を抱いていた。すると、先日、これについて、「ヘイト・スピーチの法的研究」(金尚均編、法律文化社2014.9.16発売予定)において、すっきり整理されているのを見つけたので、この機会に紹介する。具体的には、ヘイトスピーチの規制の是非を議論するにあたって注意を払うべき、以下の異なるレベルについてである。

①理論レベル:  憲法上、許される形態で、ヘイト・スピーチ規制を立法することは可能か。

 (表現の自由の過度の規制、明確性の原則といった点の理論レベルの問題)

②立法実務レベル:

   a. 規制立法の取り組みを進めるなかで、

    立法過程において恣意的な文言修正が滑り込まされる危険性の検討

   b. ヘイト・スピーチ規制をきっかけに、

    ヘイト以外のカテゴリーの(正当な)表現を規制する立法へのハードルが低くなってしまわないか。

③司法実務レベル:

  立法制定後の恣意的な運用の可能性 (適切な意図で設けられた立法であっても、実際の運用において政府または法執行部門が嫌う表現のみに適用されてしまうおそれはないか)

④政策的判断(比較衡量)レベル:

 上記①から③の懸念を全て克服できるような固いヘイト規制立法とするためには、必然的に、規制対象がかなり狭まってしまうことが予想される。そこで、そこまでの限定的な規制であっても犯罪類型として新設することの意味はあるのか。表現規制を設けることの弊害を凌駕する実益があるといえるか。

規制推進論者と反対論者が意見交換をする際には、ヘイト「クライム」を念頭にした議論をしているのか、クライムとはならないのスピーチ的行為の話をしているのか、まず区別する。その次に、「クライム」以外のスピーチ的行為の議論ということであれば、上記①から④のどのレベルで意見の対立が生じているのか、どこまでが共通認識でどこから意見が分かれるのか、常に論点整理に意識を払う必要がある。

例えば、江川紹子氏のコラムなどは、こうしたレベルの違いを意識して論述されているので、もう一度、読んでみていただきたい。

議論の前提に混乱があると、かみあわない不毛な論議の繰り返しになる。また、単なる誤解がさらなる誤解を呼んで、その果てに感情的対立まで生じかねない。私は、既に、いくつかの研究会や、twitterなどインターネット上の議論において、本来は味方であるべき人々の間に、こうした感情的な溝ができていく様子を見てきたような気がする。

人類共通の悪で、内なる手強い相手 〜レイシズム〜 に立ち向かっていくために、仲間の力を結集させていくべき必要性は誰も否定しないであろう。にも関わらず、単なる基本的な論点整理が混乱しているがために、本来、仲間となるべき人々が分断され対立してしまうような事態は、何としても避けたい。その思いで、ここ2週間ほど一連の情報発信に取り組んでいる。

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ヘイトスピーチの定義について もう一度考えよう。

※ 2024.5.16 改訂履歴:  ①質問の番号をマンガ冊子「あなたと私とヘイトスピーチと」巻末(p.26)のQ+Aページに対応させました。②Q4の質問分に下線部を加筆 (はじめに)この冊子でQ&Aをまとめるにあたって、大切にしようとした視点、基本的な考え方などがあれば、...

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