1 はじめに
国連人種差別撤廃委員会による対日審査が20、21両日、スイス・ジュネーブで行われた。前田朗先生のブログで詳細な速報をしていただいている。 私が弁護団事務局を担当した朝鮮学校の事件について、各委員の質問・コメントと日本政府答弁を読んだ。すると、国連のユエン委員の質問では、事案の前提が整理しきれていないがために、戸惑いながら質問している様子がみてとれた。この事案が「スピーチ」に留まる行為(下記の類型2)などではなく、現行法違反の犯罪(「クライム」。下記の類型1)に至っていた事案であるという、客観的な前提がぐらついたままの質問になっていたのである。 そして、この隙間にうまくつけこまれ、日本政府答弁では、朝鮮学校の事件が問いかけてきた問題に向き合うことはなかった。具体的には、
・現行犯逮捕もせずに街宣を行うに任せた対応 (警察の「共犯的な寛容さ」という中村一成氏の指摘をご参照いただきたい) ・告訴から起訴まで9ヶ月もの時間を要した不当性、 ・差別性を無視した刑事事件の審理、 ・執行猶予という軽い量刑が再犯及びヘイト街宣の蔓延を許したこと
など、ごまかされて逃げられてしまったという印象である。
(日本で横行しているヘイトスピーチはれっきとした暴力であるといった国連委員のコメントが注目されている。しかし、各委員がコメントするにあたって念頭に置いていた典型事案が、日本法上でもヘイト「クライム」に達する威力業務妨害や暴行行為に該当する行為であったならば、「暴力」で許されないと結論づけられるのは当たり前のことである。わざわざ国連の条約のエキスパートにコメントさせるまでもない、単純な帰結であった、ということになってしまう。)
2 「ヘイト・スピーチ」の2類型
昨今の日本のメディア等で「ヘイト・スピーチ」と一括りにされがちな一連のヘイト街宣であるが、これには
■類型1.日本の現行法上、既に犯罪行為(「クライム」)となるような
威力業務妨害、名誉毀損等に至る行為。
■類型2.日本の現行法上は、犯罪に該当せず捜査・処罰の対象とならない行為
の2種類がある。朝鮮学校の事件は、類型1のヘイト「クライム」である。民事の判決のほうが大きく報道されたが、民事の地裁判決以前に、彼らの行為は、既に捜査・起訴を経て有罪判決が確定しているのだ。
今回の国連の審査をはじめとして、ヘイト抑制に対する日本政府の対応の甘さを指摘する場面においては、類型1か類型2かで、追及の仕方が全く異なってくる。つまり、類型2の「スピーチ」行為を念頭に置くのであれば、現行法で十分なのか、不十分であれば立法すべきではないか、それから(犯罪処罰は無理でも)その他の政府施策は全て尽くされているのか、と問えばよい。しかし、類型1の「クライム」であれば、これは現行刑法違反の犯罪行為に対する捜査や処罰のあり方の問題である。日本政府内の捜査機関(警察・検察)及び司法機関(裁判所)において、迅速に、公平に、厳しく捜査・処罰が行われているか、日本社会の差別意識に影響され政府対応の甘さをもたらしていないか、と問いかけなければならない。
一覧表にしてみました。
3 京都朝鮮学校事件では不十分であった政府対応
京都の朝鮮学校事件における政府(捜査機関・司法機関)の対応は全くもって不十分なものであった。しかし、今回の国連審査では、類型1と2の整理に混乱があったがために、この追及が極めて甘くなっている。
鈍かった捜査対応に潜む差別性
詳しくいうと、本件における警察、検察の対応はとても鈍く、逮捕まで8ヶ月を要するなど、不当に長い期間を要していた。告訴の時点で、ネット動画で、犯罪行為に該当する確たる証拠も揃っていることも考えると、異様に遅い対応であった。その間、児童や父母といった被害者の不安は継続していた。ヘイトピラミッド上層に位置する暴力行為であったにも関わらず放任されてしまったのである。かねてより、日本の警察組織は、国家権力や大企業に対する正当な表現行為に対しては過剰ともいえる介入をしてきた。それなのに、ひとたび被害者が、在日コリアンというマイノリティや社会的弱者となると、悪質な威力業務妨害行為を現認しながら、積極的な指導も現行犯逮捕もしなかった。人種差別撤廃条約上も見過ごせない、れっきとした差別というべきである。 こうした差別は、かつて「ヘイト・スピーチ」「ヘイト・クライム」なんて言葉が全く知られていなかった時代に、既にチマチョゴリ切り裂き事件などで露呈していた、捜査機関の対応における不当な差別と連続性を有するものだ。「スピーチ」一緒くた論では、こうした連続性もぼかしてしまうことに留意しなくてはならない。
量刑の軽さの不当性 ~無反省な被告人に対する執行猶予判決~
朝鮮学校事件の刑事裁判では、有罪となったことは当然の帰結である。他方で、顕著な特徴として注目すべきは、その量刑の軽さである。本件の刑事の法廷においては、民族差別の悪質性が審理の主題となることはなく、被告人らは人種差別行為に対しては全く無反省であることを法廷で堂々と認めていた。かかる審理経過がありながら執行猶予が付されたもので、この量刑の軽さのために、人種差別抑止の効果は限定されたものになった。被告人らは、やり方が悪かっただけで本質は政治的言論ではある、などと主張するなど、差別意識、偏見、先入観の類については、法廷の場においてさえも謝罪されることはなく、何ら是正されなかった。 被告人らがこうした姿勢を示すのは自由であるが、問題はこれに対する裁判所の評価だ。裁判所は、本件の悪質性の本質が、人種差別・民族差別メッセージにあることに向きあわず、単に、手段としてやりすぎであったかのような評価をした。差別に対して毅然と対峙する日本社会の姿勢を示すことはできなかったのである。かかる姿勢は、人種差別撤廃条約の趣旨に真っ向から反するはずのものである。その後、法廷において無反省さを貫いた被告人らがことごとく同種ヘイト再犯を犯し、新たな犯罪被害者とヘイト被害に傷つくマイノリティを作出したことは、偶然ではないはずだ。こうした事態を許したのは量刑の不当な軽さであり、これについての政府責任の所在と、その後の社会に与えた影響というものは、国連において厳しく審査されるべき由々しき問題であったはずである。
国連審査における日本政府答弁
それにも関わらず、日本政府の答弁は、単に KONO大使--
平成21(2009)年12月の京都朝鮮学校事件の刑事処罰に関しては、被告人4名について、威力業務妨害罪、侮辱罪等で起訴がなされ、京都地裁で有罪判決が出て、確定した。ヘイト・スピーチに関いて、日本刑法では、名誉毀損罪、侮辱罪、威力業務妨害罪、脅迫罪、強要罪などが成立しうるので、捜査当局は刑事事件として取り上げるべきものがあれば法に基づいて適正に処理している。
というもので、あたかも何も問題なく、適正に対応されたかのようにしれ~っとした説明でごまかし、それで終わっている。
4 ヘイト「クライム」研究の空白
私は、今回の追及の甘さを生んだのは、日本におけるヘイト・クライム研究の空白であると感じている。つまり、現行法違反の行為が人種差別的動機に基づいて行われた場合、日本の刑事司法がどのように対応すべきか、この点についての研究が空白になっているのだ。そして、その原因は、日本において「スピーチ」概念と「クライム」概念がごっちゃになって議論されていることにある、とにらんでいる。 昨年末から、師岡康子さんの新書「ヘイトスピーチとは何か」を中心に、いくつかの文献を読んだ。これを受け、私から日本の研究者の皆さんにお願いしてきたことがある。ヘイト・「クライム」について定義を再確認して、議論を整理してほしい、と。 ヘイト「スピーチ」規制法の新設が必要なほど甚大な損害が生じる、と論じるときに、その理由付けとして、ヘイト「クライム」類型の被害調査を引用されることが多い。京都第一初級学校の事件や、奈良の水平社事件、ロート事件など、スピーチ規制論者が挙げる代表的な事例は、読者の関心を引きつけ、問題意識を強めるには効果的な事例であろう。 しかし、その多くは「クライム」の領域に至っている。これらの「クライム」事例に依拠して「このような悪質な事例を合法のまま放置できない、だから新しい法律が必要」といった流れで問題提起するのはミスリーディングというべきである。ヘイト「クライム」については、「スピーチ」規制法の新設とは関係なく、現行法の運用の強化により禁圧していく余地が残されているからだ。「クライム」類型については、現行法を適用して有罪判決により処罰されているし、民事的に損害賠償命令もだされている。日本の法律は量刑や、慰謝料、無形損害の認定において広い裁量を裁判官に認めている。人種差別の悪質性は、現行法下の刑事法廷や民事の賠償の審理において重要な考慮要素と位置づけることができるはずである。こうした運用の定着を模索していくことは、実務的には「スピーチ」規制新法の議論と同じくらい大切なことである。(参考: 京大・曽我部教授のtwitterまとめ) 学者や市民のみなさんには、その他の「クライム」ではない行為類型とはきちんと区別して、現行法を活用した対策を論じてほしいと思う。被害者がマイノリティであっても、捜査機関は日本の被害者と同様に、もしくは人種差別の悪質性に照らして、公平に、迅速に、行為の悪質性に即した厳しい量刑が確保されているか、と問いかけてほしい。「クライム」に議論を絞るからこそ、より適したレシピが導ける場面もある。諸外国には充実した研究成果があるにも関わらず、日本に紹介される際には「スピーチ」類型との区別・整理が不十分なまま紹介されている。ピンぼけのまま「ヘイトは悪質だ」といった抽象的な教訓しか得ていないようでは、効果的なヘイト抑制策につなげられない。 もちろん、「スピーチ」被害の本質に迫るために、「クライム」事例から考察を深めるアプローチは極めて有益である。しかし、議論が混乱しかねないので、「スピーチ」の議論で「クライム」の調査結果の引用を行う際には、その都度、説明を加えていくことが真摯な説得のあり方であるように思う。
この点、安西教授の論文(39頁・6行目以降)では、ヘイト「クライム」法については「スピーチの規制ではなく」、議論の対象とすべきは「ある犯罪行為があったときにそれに対する適切なレベルの処罰の問題」と位置づけられている。的確な整理といえよう。このように、諸外国では、ひとたび「クライム」の領域に入ってくると、表現の自由のために規制できない、なんて議論は原則としてない。処罰そのものをやめておこう、なんて発想は一切ない点に留意すべきである。 この点、一口にヘイトスピーチといっても、最も悪質な「クライム」類型から、「お行儀のよいヘイトスピーチ」、さらには、うっかりやってしまったような過失類型(「うっかりヘイトスピーチ」)まであり、表現者の意図、悪意、影響度の程度にかかわらず、様々な態様のものを含む。日本における最近のヘイトスピーチをテーマとする多くの書籍・文献では、これらをなんでもかんでも幅広く「ヘイトスピーチ」類型として大括りにして、そのなかのものが一緒くたに論じられている現状があるように思う。この議論のおおざっぱさが、今回の日本政府答弁のごまかしを許してしまっているといえるかもしれない。
5 立法論だけでは解決しない
~規制法の運用の問題があることに目を向けるべき
クライムとスピーチを一緒くたに論じることによる弊害として、もう一つ気になる点がある。「クライム」に対する法律の適用・運用の問題という、本来あるべき問題提起が落ちてしまいがちなことである。法律があっても、これが取締りに積極的に利用されなければ絵に描いた餅にすぎない。 ヘイト「クライム」街宣者たちが「表現の自由」の隠れ蓑、政治的言論であるとの「表面上の装い」をまとうだけで、警察の動きが途端に鈍くなってしまう現状を改善していくために、定義の整理の問題は避けて通れない。ヘイト「クライム」には強いメッセージ性があり、こうした「クライム」に対して迅速な取締りが遂行されず放置されるような事態になれば、ヘイトのメッセージ性に影響を受けて「スピーチ」被害もまた広がることになる。ヘイト暴力ピラミッドの裾野を広げ、さらなる「クライム」被害拡大をも、もたらす。現行法上「クライム」に至らないヘイト「スピーチ」がやりたい放題となるのはもちろん問題であるが、「クライム」が社会的に黙認されることの影響も甚大なのである。 (こちらの文章にまとめていますので、よろしければご参照ください)。 弁護団の一員としての活動を通して、日本の現行法の限界を感じた場面は多くあった。他方で、こと「クライム」類型においては、現行法をより効果的に用いる余地がある、ということに気付かされた。現行法のポテンシャルを最大限に発揮させるために必要なこと。それは、現在は空白となっているヘイト「クライム」研究の進展である。
そして、現在のヘイト「クライム」に対して法の適用・執行に支障をもたらしている要因や政治力学のようなものを見定めておくことは、「スピーチ」規制新設を議論する際にも有益なはずだ。今は放任されているスピーチ類型についても、将来的な立法によって「クライム」化されたときに、果たして警察は動くのか。動くとして、どの方向に向かって動いていくのか。警察組織というものは多数派や権力者の意向を強く反映する。子どもを狙った京都事件をはじめ、現行法においても極めて悪質な「クライム」類型に対してさえ、なぜか動きが鈍い警察の体質があるとすれば、そこから得られる示唆や教訓とは何か。新法の当初の理念どおりに法律が運用される保証はなく、権力に対する警戒心を忘れてはならない、というのが私の意見である。
ヘイトスピーチの規制法が実現するとしても、それは何年もの議論を経た後のこととなり、「表現の自由」論者との意見交換のなかでその適用対象も厳しく限定されていくことは必至である。それまでの間、もしくは、制定後も、現行法のポテンシャルを最大限に活かしきって、ヘイト被害への抑止効果を確保する必要がある。 ということで、今回の国連CERD委員会の議論を見て、改めて、ヘイトクライム類型について議論の整理が求められることを実感した。そこで、乱文のままでも急いでこの文章をアップすることにした次第である。