ピラミッドのボトムアップ作用
右にヘイト暴力のピラミッド図(出典:Brian Levin, Anti-Defamation League)を示しました。
このピラミッドの図示は、アメリカの中学や高校などでよく用いられるものです。マイノリティに対する暴力行為というものが突発的に始まるようなものではなく、まずは、最下層の悪意なき先入観が社会に浸透していることが土壌となって、偏見に基づく具体的な行為が行われるようになり、さらにこうした行為の数が増えるなかで制度的な差別、そしてついには暴力行為が発生するようになり、当初は散発的なものが徐々に社会全体に蔓延するところまで発展していく、という概念です。
ジェノサイドなどと聞いても、今の日本社会では大げさに感じられるかもしれません。在特会の街宣などでの「保健所で処分」「鶴橋大虐殺」「良い朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」と言った発言も空虚で現実味がありません。
災害時など非常事態下を想定した場合の懸念
しかし、平常では起き得ないことでも、災害の直後の混乱のなかではどうでしょうか。
治安を維持してきた国の統治機構が麻痺状態に陥り、かつ、情報が寸断された極限の状況下で、デマであると簡単に割り切って不安を断ち切る力を、私たちは備えられているのでしょうか。普段さんざん悪口や侮蔑を投げつけてきた分だけ、災害直後の極限の精神状況のなかでは、報復・略奪の限りを尽くされるのではないかなどと、疑心暗鬼や不安に駆られる作用はないのでしょうか。不幸にもそうした不安が一人のなかにとどまらず、同じく極限状態に置かれた多数の人々に共有され増幅され、通常では考えられない行動に駆り立てられてしまうような群衆心理の作用などはないと言い切れるでしょうか。
私は、遠い昔のドイツや、アフリカなんかだけで起きることなどではなく、21世紀における日本社会も無縁ではいられないという危機感を持つべきだと思います。 (参考文献: 「検証 東日本大震災の流言・デマ」(光文社新書、荻上 チキ (著))
確率論からの考察
もうひとつ、このピラミッドを考えるうえで大切なことは、害悪をもたらす確率の観点です。すくなくとも、現状では差別発言や犯罪煽動があっても大半の人はそれを真に受けることはありません。しかし、ネットや報道を介して何十万、何百万人の人々が聞けば、 人口確率的には0.1%や1万分の1であっても、どこかでこの言葉を実行に移す極端に過激な人物の心に響いてしまうかもしれません。たった一人でも実行に移す人が出てしまえば取り返しのつかない結果となってしまいます。
差別街宣の反復が広い日本のどこかでこのような「たった一人」を産みだし被害を発生させる蓋然性という意味合いで確率を考えれば、拡散力を持ったヘイト発言が50回繰り返されたら一度くらいは「暴力事件」が発生するかもしれない。すると2%という高い割合になることになります。ビラミッドの裾野を放置することは、こうした差別的言辞が広まりやすい社会状況と、ごくごく小さな割合で存在するであろう過激な人物を育む温床となりかねなません。楽観することはできないのです。
今回の事件は、ピラミッドのやや上層に位置する「暴力事件」の類型に属します。こうした暴力行為の表に出てきたということは、日本社会においてこれを下支えする先入観、偏見に基づく行為、差別的制度といったものが広く蔓延してしまっていることを示していると理解すべきでしょう。
過去からずっと続いてきた在日差別の歴史の延長という古い要因と、他方でネット社会の進展を触媒とした新しい要因が複合して、差別意識が急速に裾野を広げていたものと思われます。
ピラミッドにおけるトップダウン作用
今回の事件の対応を通して、私が実感するのは、このヘイト暴力のピラミッドに関して、上層に位置づけられる行為があった場合に、下層の裾野を一気に広げてしまうという、トップダウンの下向きの差別煽動効果があるということです。上述したような、下に位置する裾野から上に向かっていって大規模・悪質な差別行為を醸成するというボトムアップ作用とは逆方向の作用です。
今回の在特会の朝鮮学校に対する街宣を考えてみましょう。今回の「威力業務妨害罪」「侮辱罪」該当行為は、被害にあった在日朝鮮人の児童や学校関係者は、人としての尊重に値しないとの強烈なメッセージになります。人種的民族的劣位にあるという自己の見解を強い決意のもとで行動で実践して見せるわけですから、 言葉で言うよりも何十倍も強烈なメッセージとなります。
ピラミッド内の「偏見に基づく行為」類型には「非人間化」という行為が挙げられています(被告らの差別街宣でいえば「朝鮮人は保健所に」「朝鮮人とは約束が成立しない」などという言葉はこれにあたるでしょう。)もっとも、こうした言葉により非人間化する以上に、客観的な暴力が差別的動機を明示して行われることは、被害集団を非人間化するメッセージの最も強い形態となるわけです。 言葉はなくとも「あなた方は人間として扱われるに値しない」ということを、行動一つで強烈に印象づける行為ということができます。
本件で被告らは、こうした犯罪行為を否認したり隠すのではなく、堂々と動画サイトにアップして拡散・喧伝したわけです。堂々と確信に満ちた振る舞いを見せつけられた視聴者に対し、「街宣者たちがここまで覚悟を決めているくらいなのだから、被害を受ける側に何らかの落ち度があるんだろうな」とか、それが人種的、民族的な特徴から来るんだろうな、とかいった先入観が広まってしまいます。このため、ピラミッドの上層に位置する行為があれば、これを放任せず速かに法的措置をとり、社会として許容しない毅然とした姿勢が示される重要性があるのです。
警察の「共犯的な寛容さ」の波及効果
しかし、本件における警察、検察の対応は鈍く、上層に位置する暴力行為が放任されてしまったのです。かねてより、日本の警察組織は、国家権力や大企業に対する正当な表現行為に対しては過剰ともいえる介入をしてきました。それなのに、ひとたび被害者が在日コリアンというマイノリティや社会的弱者となると、悪質な威力業務妨害行為を現認しながら、積極的な指導も現行犯逮捕もしなかったというのです。
実は、12月の事件に先立つこと数日前に、学校長は、警察署を訪れて警備要請をしています。ですので、警察は動画などから、事前に在特会の街宣行為の特徴を確認し、その行為が具体的にどの刑法規定に違反を構成するのかについても検討していたはずでした。校内の児童に深刻な影響を与えうることについても理解していたはずでした。それでも、なお、事件当日には「共犯的ともいえる寛容さ」をもって黙って見ているだけだったのです。
在特会等のヘイト街宣の動画には、臨場した警察官の「共犯的な寛容さ」が写り込んでいます。これが、起訴まで9ヶ月も要した検察官の事件処理の遅さとも相まって、在特会らを勢いづかせました。社会的に許されている行為であるかのような誤解を多数の視聴者に広まっていくにまかせ、その後の全国各地でのヘイト街宣の蔓延を許した一つの要因となったと考えられます。
警察の「共犯的な寛容さ」は、日本政府ですら、一定限度では在特会の主張や行為態様を許容している、というメッセージとして伝わりました。けんか両成敗、つまり、被害者側にも落ち度があるからこのような嫌がらせを受けてしまっているかのように見えたことでしょう。こうして、警察の消極的な対応は、被告らのメッセージを強め、トップダウンでピラミッドの裾野を広げる効果に寄与したのです。
これらの行為に対する刑事裁判では、有罪とはなったものの、民族差別の悪質性が審理の対象にならず、無反省でありながら執行猶予が付されました。この量刑の軽さのために、ピラミッドの裾野を縮小させる効果は限定されたものになりました。つまり、被告人らの差別意識、偏見、先入観の類は、法廷でも謝罪されず何ら是正されることはありませんでした。裁判所は、人種差別・民族差別メッセージにこそ悪質さの本質があることを見抜けず、手段としてやりすぎであったかのような取り扱いとなってしまいました。差別に対して毅然と対峙する日本社会の姿勢を示すことはできなかったのです。
(「共犯的な寛容さ」という表現はジャーナリスト中村一成氏より引用。雑誌「世界」に連載された中村一成氏のルポ「ヘイトクライムに抗して」(2013.7~9月号)もご参照ください。)
民事判決がもたらした効果
本判決は、他の事例に法律上の効果をもたらすわけでもありません。しかし、ピラミッドの裾野の広がりを防いでいく面では、大きな効果を期待しています。すなわち、ここ何年かで、上述のとおり在特会その他同種の悪質な街宣の横行と、警察の「共犯的な寛容さ」が肥大化させてきたピラミッドの上層をぐっと押し込め、下層への作用を弱める効果をもたらしたと考えられます。悪質な行為に対して、高額の賠償命令を課すことを通して毅然とした姿勢を示し、世間に対して強いメッセージを発したのです。
こうした事実上の効果を作用させるためには、裁判所の判決や、これを支持する意見が広く報道され認知されることがとても重要です。今日においては、従来のようにマスメディア頼みではなく、Facebook, TwitterなどSNSで積極的に情報拡散に参加することも、マイノリティに属する人々への一つの効果的な支援となるといえます。