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「金沢法学」より抜粋

ヘイトと「萎縮効果」 再考


より抜粋 (「5 ③ 「萎縮効果」の特殊な用法から得られる示唆」)

(1) 伝統的な「萎縮効果」論との相違

高松高裁判決(注: 徳島事件)において、

「萎縮効果」という用語は、伝統的な憲法の議論とは真逆ともいいうる方向性で用いられている。実は、ここには今日の差別被害の特殊性についての重要な示唆が含まれている。

従来の用法において、

この用語は、表現行為に対する刑罰等のペナルティが重きに過ぎ、あるいは不明瞭な基準でペナルティを課されるのを見せられた場合に生じる、社会的な波及効果を説明する用語であった。つまり、一般の人々が同種表現を自主規制してしまい、活発な意見交換を萎縮させてしまう現象をさす。そして、主として表現規制を受ける側から、規制の不当性を公権力に対し主張する文脈で言及される概念であった。この用法において本件にあてはめるならば、民事訴訟において高額賠償のペナルティを課されるのはヘイトスピーチ行為者であるから、ヘイト行為者の側から「萎縮効果」論を引用されるはずであった。そして、過大なペナルティを課す裁判所に対し表現の自由が主張される、という構図となったはずである。

しかし、本件の判決理由において、

「萎縮効果」という用語は、私人間の紛争にこの用語をもちこむ点で従来の用法とは決定的に異なっている。しかも、表現者の側に対してではなく、当該表現の受け手に生じる効果を問題視する用法となっている。具体的には、「第1審被告らが差別の対象とする在日朝鮮人らを支援する者は第1審被告らから攻撃を受け,様々な被害を蒙るということを広く一般に知らしめ,その支援活動に萎縮効果をもたらすことを目的としたもの」とされ、高松高裁は、表現規制のほうを正当化し、さらには積極的に要請する理由づけとして、この概念を用いている。

(2) 本件被害に見られた「萎縮効果」 この認定は、「萎縮効果」の用法において異質であるとはいえ、今日の差別被害の実情を正しく把握した正当なものである。すなわち、徳島県教組と前書記長は、「在日朝鮮人、朝鮮学校に関われば『こんな目に遭う』とのメッセージ」”をネット上に拡散され、見せしめの標的とされてきた。ネット上で扇動される差別意識と、差別意識によって増幅される誤解、偏見、誹謗中傷の影響が、マイノリティに直接作用するのは当然である。しかし、それに留まらず、マイノリティの支援活動をしようとする市民にも作用することが実感された。

明らかな犯罪行為が、何故か、臨場した警察官によって黙認され、その結果、被害者は、24時間、どこにいても、ネット上の聴衆とでくわすかもしれない恐怖感で、日々、極度の身の危険を感じざるを得ない状況へと追い込まれる。そのような社会的効果をもたらしていた。ヘイト被害の標的にされうるという心配から、市民の善意に基づく公益活動や、支援のメッセージの表明が躊躇されてしまう方向での「萎縮効果」が確かに生じていたといえる。仲間内から聞こえる「教組があんな余計なことをせんかったら」の声など、被害者に落ち度があったかのような非難を前に、原告らは孤立を深め、朝鮮学校への支援活動は事実上の中止を余義なくされていた。

高裁判決が「萎縮効果」という用語を、伝統的な憲法の議論とは逆方向の理由づけで用いたことは、今日的なインターネットを媒介とする差別扇動被害の特徴への示唆を含んでいる。

まず、萎縮させる侵害主体は国家ではなく、私人である。

しかも、その私人は、大企業や組織された団体ではない。人権侵害主体の新たな典型類型が現れたということであり、ネット扇動に長けた数名の個人(極端に言えば一人でも可能)が差別扇動行為に従事することによって、国家や大企業に匹敵する影響力・破壊力を及ぼしうる。その背景として、地理的に隔離されたままであったはずのごくごく少数の極端な考えや価値観を持つ人々が、ネット技術を介して現実社会で集い、行動できるようになった社会環境の変化がある。差別扇動の結果、悪意に満ちた差別意識が共鳴し伝染していく作用や、悪貨(差別デマ)が良貨(真実を反映した言及)を駆逐していく傾向等については、ネット技術の浸透前から一般に指摘されてきた。インターネットやSNSの浸透は、何らかの理由でこの作用を強化しているように見受けられる。(脚注41)

そして、この種の差別扇動を用いた攻撃・妨害は、政府の差別的政策や為政者による差別発言等があればそれを背景に飛躍的に破壊力を増す。しかも、差別扇動者らの狙いどおり効果的に「萎縮効果」が発揮されれば、現政権への支持をより強固にする方向で機能する。

極論すれば、現政権としては目障りな個人や団体に対して差別扇動が行われれば、現政権は自身の手を汚すことなく「萎縮効果」の「恩恵」に預かることができることになる。市民活動の多くは、憲法的価値を体現する貴重な活動に従事するからこそ現政権と対立し敵視されうる立場に身を置かれることを考え合わせると、このような「恩恵」の不当性は明らかであり、司法における何らかの手当てが要請される。

◆ ...司法に対する民主的統制を強調する見解が一定の支持を得ているようであるが、差別扇動やインターネット言論を背景に多数決原理が暴力性を呈している現状で、司法機関を安易に民主的統制に服させてしまってはならない。人権の砦は多数意見をおしとどめる力を失い、ほぼ確実に人権保障の後退をもたらすであろう。

 司法判断の基盤には、圧倒的な民主的圧力にも対抗しうる正当化原理が必要で、人種差別撤廃条約をはじめとする国際人権規範はその一つの拠り所となるはずである。人種 差別撤廃委員会等における専門的議論の蓄積を国内の立法関係者にも積極的に紹介して、認知度を高めていく必要がある。

◆ ...マイノリティの問題意識をくみ取れるような司法インフラが未整備である現状に無警戒なまま、訴訟提起の数のみ増やしていけば、その分、不当な判決が積み重ねられるよ うな事態すらも想定される。その結果、被害当事者コミュニティの日本社会への信頼を失わせ、社会の分断と相互不信を深化させかねない。

◆ 司法に関する制度設計を議論するにしても、今日の差別意識の支配する日本社会の現実をふまえて検討する必要がある。法廷の裁判官は、世間の差別偏見の影響を排除しきれるであろうか。訴訟指揮や法廷での言動が差別性を反映していれば、被害当事者はその度に大きく動揺し二次 被害に晒されることになる。悪ふざけの弁明を続ける差別者をさらに増長させ、日本社 会の差別偏見を強めるような判決内容となる危険性もある。

ここまでは加害者側の事情の分析といえる。それでは、こうした攻撃に晒された場合に、被害を受けた者の視点からは世界はどのように映り、被害者の内面にどのような影響(精神的苦痛・団体であれば無形損害)を生じさせていくのか。加害者側の事情の分析を被害者の視点からの風景に、意識的に読み替えて吟味していく姿勢が求められる。人種差別の悪質性への言及は、被害者の思いや事情を介在させることで、より社会的共感を得られやすくする作用も期待される。填補賠償に重点を置く審理をとおして、こうした被害実態が客観的に明らかにされていくことの意味は大きい。

(脚注)

39 中村一成氏のルポ記事( 「週刊金曜日」二0ー五年三月一五日号・31頁) 40 脚注38中村「週刊金曜日」記事・31頁

41 津田大介他著「安倍政権のネット戦略」創出版2013年は、この観点について重要な 示唆を含む。


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